2014年3月22日土曜日

@ No3 創12:1 主はアブラムに仰せられた。

この言葉の重みと、とりなしの言葉と祝福の言葉。

創12:1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

   創世記の一つの中心的な物語。神からのメッセージの幕がこの12章から始まります。一人の男が、神の目にとまり、呼び出され召しを受けるまでのロングストーリーの幕開けです。

           


彼アブラハムの経験する、またその行動に隠されている神様との契約、神の愛の姿と形と教え等をが学び取れることが多く隠されているアブラハムの生涯です。彼の経験を、それぞれの生活に適用していくならば、大きな神の恵みと力を得るようになると確信します。

アナザ・ストーリー アブラハムの信仰に望みを!

私が始めてこの御言葉を、身をもって知った出来事。
17歳の<昭和30年代>時でした。とても思いやりの愛に溢れたカナダ人のスレーニー宣教師からでした。(私はキリストの救いを受けて救われたのは14歳でした。)

スレーニー宣教師は、冒頭の御言葉  創世記12章1節の言葉から、日本に宣教に行く決心をなさったと話されました。その話しをなさった後、私に語りかけてきました。

「あなたも将来。両親を離れ遠い外国に行きキリストの話をするようになる気がするよ。
貴方のために、とりなしの祈りをしていると、神様からの分からない特別な思いが、私の心に湧いてきましたから・・。」と話されました。
        


17歳だった私にはとてつもなく想像が付きませんでした。将来は結婚したら、両親と一緒に住みたいし・・外国?言葉も話せないし?  今はコックの見習いをしているし。将来の夢はレストランを持つことだから・・スレニー宣教師の言葉は、当時の私自身にはピ~ンとは来ませんでした。

  宣教師は「私は貴方のために、ズーと祈りますよ。貴方のこの言葉を心に留めて将来を祈って見ては如何でしょうか?」語って下さいました。それから2~3年後、仕事の都合で、その教会を離れて別な町の教会に・・
  時折は、その宣教師の自宅には遊びに行き交わり、交流をしていました。
カナダの教会からの遣わされていた任期が終えられ帰国なさいました。それから、20年後、未だお若いときでしたが、急病で亡くなられたことが残念です。

 私はその後、コック料理の修業のために幾つかの職場を変わり、また結婚。結婚生活が10年あまり、妻の病死で終わりました。傷心の心癒やすために、パリに行き、現地採用で、日本商社マンの独身寮の賄い作りをしました。その仕事ぶりが認められた? イラクに派遣されました。 コプト教のクリスチャンと交流と仕事も一緒にしました。イスラムの人達とも仕事を通じて仲良くなりました。親しくなると、キリストの話しも出来るようになりました。  アラーの神は、エホバでもありアブラハムの神だからと、私の証 キリストのを良く聞いてくれました。
イスマエルの神と同じだからと・・

私自身は、失いかけていた信仰を、イラクのメソポタミア砂漠で神に出会い、信仰を取り戻しました。砂漠に立ち上がる火の柱など聖書の世界の不思議をこの目で見ること以外に、肉声のように感じた、神からの言葉を聞くことも出来ました。火の柱が立ち上った砂漠に興味から見に行き、強い臨在というか不思議な人の気配(イラクの砂漠の午後9時頃、人は普通は居ないのですが) 気を失っていた中ですが・・。

     
           画像は私自身の30歳代
聖書に書いて有った下記の言葉を下記の、気を失うようなおぼろげ中で聞きました。 イザヤ59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

神に対しての何故ですかが?神様に抱いていた疑問が吹き飛びました。イラクからフランス・アルジェリア カナダと転々としました。12年間でした。 父の死に目にも会えませんでした。
母がアルツハイマー記憶喪失になりました。癒やしを求めて4年近く、神の恵みで回復するという奇跡も体験。徐々に献身へと導かれていきました。

神学校を卒業してからは、海外宣教にも機会を与えられました。  ルーマニアからの帰国中継地点のハンガリーの駅の階段で、明日が日曜日だけれど、礼拝する場所が分からないと祈っていたら、あるハンガリー人夫人に声をかけられました。私が頭を垂れて祈る姿に気持ちが動いたそうです。ホームレスが途方に暮れているように見えたとも・・夫人は気になって声をかけて頂きました。
理由を伝えると。自宅に招き食事を提供してくださり。私の紹介する教会にに行きましょうと語って下さいました。 
午前中には婦人の所属教会で証をして、午後の教会では1000名近い会衆につたない英語で福音と癒やし、救いの関係をメッセージすることが出来ました。癒やしを宣言すると、心臓に問題があった人が癒やされたと報告を受けマッシュた。

終わった後、ふと前記のカナダ人宣教師の言葉と、とりなしの祈りを思い起こしたのでした。
祈って下さった宣教師は既に亡くなっておられましたが・・実現したと思いました。17歳の時に語られたさりげない言葉が、35年後に実現しました。

愛を持って長く長く時間をかけてのとりなしの祈りは実現すると・・おもいました。さりげなく愛ある長期間のとりなしが重要です。教会はとりなし合う、祈り合う人々の集まる所です。

 特定の方へのとりなしの力・祈りには 、神とその人・個人の間に入っ履、短期中期 長期にわたってとりなして励まして、注意や警告して下さり方が本物の預言者、とりなし手だと思います。

 集会で次々と預言する、預言者もおられます。その場だけで「預言します。」と言うのではなく、長い時間のとりなしが不可欠だと思います。   集会で特別予言を受けたとしても、実現するか しないか 吟味が絶対不可欠。

預言されて事に対して、とりなしの祈り手を依頼することも大切。預言集会で預言されることの中に、貴方が一度も祈った事の無い預言があった場合は切り離してもよいと思います。しかし、後になって実現する可能性も含まれる場合もあります。新しいことを言われた場合は、継続して吟味の祈りをしても良いと思います。
いずれにしても、貴方の祈りと賜物が預言実現には有効作用。加味してきます。一片のタレントや夢・使命感が無い事を預言された場合は、その預言を疑っても良いと思います。

偽預言にはご注意を!!
よくよく預言には注意と祈りと、預言の達成には、あなたの隣人かた、とりなしの祈りを依頼することです。 預言の基本は神の愛と祈りです。
事前に『あなたはどの様な事を祈りたい?予言が受けたいのですか?」と聞いてから聞いた預言をするには注意してください。それは預言と言うよりは占いに相当します。

 神からの啓示 使命 愛を受けたら、前向きに吟味しつつ、第一歩を踏み出すことです。アブラハムのように・・。
神キリストからの多くの祝福があなたにありますように。

2014年3月5日水曜日

@ NO2 旧約聖書 覚え書き

アダムとエバはエデンの園に住み、その園の管理者としての使命を、神から与えられました

 私たちには、神によって生かされていますが、生きる目的、使命があるのです。この使命が何であるかを見つけて生きるなら、素晴らしい人生を送ることが出来ます。

 人は神との交わり会話する立場でした。神はアダムが食べ物として。色々の木の実を生えさせてあたえられました。 最初から肉食がなかったようです。菜食ですね。 人間はそのほうが健康な生活がおくれるようです。

 そのエデンには神様との契約、自由がありました。 その自由と服従の象徴として命の木の実と知恵の木の実を作られました。

 神に同じように造られた大天使ルシファーがいました。彼は蛇に姿を変えて忍び込みエバを誘惑しました。 彼らに与えられていた特権、この世を支配する権利を妬んだと思われます。この大天使ルシファーがのちになってサタン、悪魔と呼ばれるようになりました。

サタンの誘惑方法を知りましょう。

蛇は女に言った。『あなた方は、園のどんな木からも食べてはならないと、神は、本当に言われたのですか。』 女(エバ)は蛇に言った。『私たちは園にある木の実を食べても良いのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなた方は食べてはならない。それに触れてもいけない。それを食べてはならない。あなた方は死ぬといけないからだ。』と仰せにになりました。 

そこで蛇は女に言った。『あなた方は決して死ぬことはありません。あなたがたがそれを食べるとき、あなたがたは目が開け、あなた方は神のようになり、善悪を知るようになるのです。』 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのには良く、目に麗しく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実をとって食べ。いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
 創世記 3:1~6

 誘惑に陥るときには、今まで知らなかった在る情報がもたらせられます。全体的には肯定しつつも一部に対して疑いを持たせられます。 木の実は普段手にして食べているものでした。

園の中央、それは心の中心であったことも意味します。気になっていたのです。しかし、その実は自由意思の証でした。神の性質には自由があったのです。神の性質を人間は引き継いでいたのです。 サタンはその点に疑いをかけました。 「神のようになるよ」と関心を増させて疑いを与えたのです。 疑いがましたことを確認したサタンは、次のように言いました。神の言葉を変えさせたのです。「死にませんよ。」と言い切りました。 原語上は小さな変化です。

同じ死ぬと言う単語に小さな否定単語を付け加えるだけです。

今まで関心を持ってみたことがない木も実が麗しくみえてきたのです。 そのみを食べるときには彼女一人ではなく夫にも与えて食べさせて、 同じ罪を背負わせたのです。

アダムもその木も実が何であるか、当然知っていましたが、妻が食べた死ななかったので、自分も食べてしまいました。

神に従わないこと、、神が望まないことをする事が、罪と言われるのです。アダムとエバが、神が望んでいなかったこと。創造の父なる神の目から見て、的外れなことしてしまいました。それらが原罪として、人間に性質として、加えられてしまいました。 神に似て造られたはずでしたが、最初にはなかった罪の性質が加えられてしまいました。

これくらいなら良いだろ・・この程度なら問題がないだろう・・ から深みにはまり、罪を犯してしまいました。


3つの呪いと救いの契約 その風の吹く頃。彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人と彼の妻は、主である神の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 創世記3:8

 蛇の姿に変えたサタンの、甘い誘惑に負けたアダムとエバは、神のほうから、彼ら二人を捜しておられることに気がつきました。でも自由という契約の証であった、(食べてはいけないと守るか、守らないか!彼らに与えた神の本質である自由。その彼らに分与した自由意思を尊重なさったのは、神である主でした。)木の実を食べてしまった、彼らは、まともに、神の姿を見られなくなりました。

 神の姿を見たDNAは今も受け継いではいます。 人間だけが祈りをするのです。また霊的な力を恐れるのです。

 それでも彼らを捜したのは、神様ご自身でした。 彼らの言い訳は、アダムと妻であるエバとが互いになすり合う言葉使って責任を逃れようとしました。また、裸であることに気がついた、彼らの姿を見て、悲しまれました。 神は私たちを愛していそしまれるお方です。

 一旦、神が定めた事を覆すことが出来ないからです。 神は義の神です。正しいこと契約は守られる方です。

 三人に宣告なさいました。 

 サタンには怒りを発せられ、あらゆる生き物の中で嫌われ、一生腹ばいで歩き、チリを食べるようになると言われました。蛇とエバとの間に敵意がおかれて、女の子孫が、エビの頭を砕くと言われました。

 エバには、産みの苦しみを与えられました。夫に仕えるようになるとも言われました。彼女から生まれる者が、エビの頭を砕くと言われました。 そうです。彼女の子孫の42代目が、イエス・キリストとなりました。

 アダムには一緒苦しんで地を耕して、苦しみ労働することと、死んでチリに帰ることとを告げられました。 永遠に生きる神の姿から、死が与えられました。エデンの園には住めなくなりました。神が歩かれる清い場所には、居られなくなったからです。

                 
 彼らが 園を追い出されるときに、初めて一匹の獣が犠牲になって、血を流しました。 

 神である主はアダムとその妻のために革の衣を作り、彼らに着せて下さった。創世記3:21

 獣の血。つまりその死が、彼らが死ぬと言われていた事の代わりになりました。 正義ある神が一旦、神ご自身で決められたことを、神は自ら変更することが出来ませんでした。

しかしながら、取り消す代わりに新しい契約で、消して合わせられたのです。

 一旦、壁に書いた文字を消せません。でも新しいペンキを塗れば、先に書いた字を消さなくても、痕跡は残りますが、見えなくなります。新しい契約は、消しゴムみたいですね。

 血を流した獣がどのような獣であったかは、この箇所には書いてはありません。けれど汚れのない羊が神様への犠牲として、後の世になってから、定めらっる事から、羊ではなかったかと思われます。またキリストを神の子羊とも呼ばれるようにも成りました。

 まさに、蛇に語ったように、サタンのかかとに噛み付くと言われたように、十字架の死を思わせます。また頭を砕くと言われたように、キリストの死は、私たち人間に、サタンからもたらせられた呪いを、永遠の

死からの開放の予票でした。

 その後神はエデンに置かれた命の木と、線悪の知識の木を ケルビム=神の臨在を示す象徴と共に、エデンの園を封印なさいました。

 しかし、神が、私たちを永遠に愛しておられることには変わりなく、天国とも言われるエデンの園に帰ることも望んでおられます。 そのチャンスが与えられています。

それらは、私たちが天に帰る決心決意から始めるのです。


神への捧げ物 神への捧げ物を決める。創世記4章から

 エデンその園を追放された後に、アダムとエバには2人の子供が生まれました。兄カインと弟アベルです。アダムは人という意味、エバは命=という意味で、カインは私は産み得ると意味があり、息=吐く息の蒸気の意味が、それぞれにありました。 

アダムはエデンの土で、神の形に似せて作られました。エバはアダムの骨を元に造られました。その子供たちは、両親の二人の身体を元にして、エバの胎の中で造られました。神の秩序によって、これらの創造は進みました。

  大人になって、二人の子供は捧げ物を、神の前に持ってきました。エデンではアダムたちは直接、神に合う事が出来ました。子供たちも未だ、神に出う事が出来ました。兄のカインは、土を耕す者をなりました。アダムに与えられた呪いも引き継ぎ、額に汗して土を耕していたのでしょう。弟アベルは羊を飼う者となっていました。




 農作物を捧げた兄カインの捧げ物よりも、神は、弟の捧げた羊を目に留められて、神は喜ばれたのです。何故なのかを考えましょう。

 捧げ物は、その人の人生や人格を捧げる物だと思います。アベルは沢山いたと思われる羊の中から、汚れや汚れ等がない羊を、自ら選んで、捧げました。 彼らの捧げものをする、心の中や態度を見抜かれたと思います。

わたしたちは形式や余り物を捧げてはいけないと思います。一番尊ばれるのは、その心です。態度です。

 私が神学生の頃。学生寮には入りきらない、ベッド持っていましたので、あるキリストの姉妹(キリストの流された血によってつながる姉妹)に預けました。私が伝道旅行に出かけなくてはいけない時期に、その姉妹がベットを買い取ると申し出て下さいました。 

 マットレスには、私がこぼしたコーヒーのシミがついていました。リサイクルセンターで買えば、非常に安く成る物です。その姉妹は汚れたベッドを10万円で買い取ってくださいました。その金額で、伝道旅行に行けるようになり、12名が救われました。 
その品の価値よりも、姉妹の心が、ベッドの浸み汚れよりも、神に向かって捧げられたと思います。

 兄カインの捧げた農作物が、どのような状態であったか?詳細は、聖書は書いてはいません。
私達は、しおれた野菜は嬉しくないです。泥が沢山ついた農作物も嬉しくはないです。弟アベルの羊は貴重な初子であり、最良の羊であったと、聖書はわざわざ記録を残しています。彼は羊に彼自身の真心を乗せて捧げたと思います。

捧げ物の中には、人生、生き方を捧げることがあります。単に宗教的になって献身をするのか?神様からその生き方を望まれて笹替えう人生、献身なのかを吟味しなくては祝福、幸せに離れません。 単なる積極思考とは違います。 時には試練があり、辛い人生の一時、時期を過ごすこともあります。 信仰が試されます。 信仰が試され、訓練させられる時期もあります。兄は試されたのかも知れません。

 カインは、神に顧みられなかったことで、怒りを発します。主は『何故?あなたは憤っているのか?何故、顔を隠ししているのか?』と質問し、『その怒りを自分で収めるべきだ!』と彼を諭しておられます。創世記4:6~7

 神は試練を、テストを与えられますね。同じ問題が来ます。上手く乗り切り回答するまで、あなたの人生に同じようなテストが来ます。

 神への不満が怒りに変わったカインです。結果。逆恨みと言いましょう。弟を殺してしまいます。人類最初の殺人は肉親殺しでした。悲しいですね。 

 キリストは十字架に架かって、死を迎えるときに、罪のないキリストを十字架に付けた人々を『天の父よ!彼らを許してください。何をしているのかが解らないのです。』と言われました。永遠の裁きをなさる神に対しても、弁護して許しを与えられたキリストです。

 カインは弟の流した血の責任。呪いを受ける結果となりました。定着出来ずさうらう人生を過ごす結果となりました。それでも、神はカインを哀れみ、直ぐに殺すことはなかったのです。

 神の哀れみが耐えられて、彼の身体の一部に何か見えるような印を付けました。神の意志で、彼は亡くなるまでの時の前に、誰かが彼カインを殺さないようにするためでした。 人は自分で、自分で命を絶つ権利は、本来持たないのです。自殺する方もいます。けれど、生きていれば必ず幸せが来ます。

心豊かな幸せ、永遠を持つ幸せが必ず来ます。神が人生をコント・ロールなさるからです。過ちや失敗も、神によって益となるように、仕向けられます。 もちろん選択し結果を出すことは、私たち人間の責任です。カインはエデンの東のノデの地(さすらいの意味がある。)に住み着きました。

 アダムは子供を生んで、子供達が地上に広がり始めました。 このことも神の計画と祝福の中に在ることです。

 これらの祝福につながることも、あなたの幸せになることなのです。 

 神の祝福を手にしましょう
 
  家系の祝福

カインは、その妬みから弟アベルを殺してしまいました。

神は彼が自殺したり、殺したりを許されませんでした。

カインは結婚して、子供が生まれてきます。 詳細は書かれてはいませんが、神が彼に妻を与えられました。そして子供達、孫達が生まれてきます。彼らは自由に、家畜を飼い、また楽器を巧みに奏でる者となりました。 創世記4章 カインの気質を受け継いでいたようで、荒々しい気質でした。

神はアダムとエバとの間に、新しいこともを与えられました。セツと言う名前です。その子供がエノシュ その意味は神を求める。 その時代から、創世記の人々は神を求めて礼拝を始めました。その後も、子供、子孫が生まれます。

カインの子孫は聖書の歴史からは記録が消えてゆきます。彼から引き継いだ罪の性質が、神から遠ざけられました。 

セツの子孫から生まれたエノクは神と共に歩み、愛されました。 

何故か?神様のお気に入りとなったようです。神は彼を特別な取り扱いをなさいました。 私たちも、神からは特別な取り扱いを受けるチャンスはあります。 

神に対して誠実に、忠実に仕えたいですね。 それが私たちに特別な意味で霊的な祝福、実際生活での豊かさをもたらします。


@  NO1 創世記の覚え書き。

今まで各1章ずつ書いて、バベルの塔の記録まで来ました。

もう一度。繰り返してポイントを繰り返してみました。

生きる目的、生き甲斐を持とう。

 初めに神は天と地を創造した。 聖書 創世記1章1節

神はこのように、人をご自分の形に創造された。神の形に男と女を彼らを創造された。

神はまた、彼らを祝福し、このように仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。・・全ての生き物を支配せよ。』 創世記1:27~28

 神は7日間で天地を創られて、人を神の形に似せて作られました。

またエデンの園を設けて、人に住まいを与え、食べ物も豊かに与えられました。

 人は創造の神の守りの中で、安息に生活が出来ます。また神様と交わり会話楽しむ存在でした。 人には必ず、安息できる場所があります。 また神から託された生き方と同時に目的があります。 現代になっても、その事には代わりはありません。 エデンの園は、現代からは見せなくなりました。しかし、神は同じように、私たちに対して願っておられます。

人々は必ず、安息する場所が必要ですし、人生を豊かに生きる目的が必要です。必ずしも経済的に恵まれることばかりが、豊かな人生というのではありません。生き生きとした人生を生きるためには、神との交流は必要です。また人生の目的、使命を持つことが大切です。高齢になっても、同じです。 比較的に、日本人は高齢になると、自分が死を迎える事だけを考え始めますが、本来は高齢であっても、『私は神によって生かされている。』という考え方を持つなら、死を待つだけの人生ではなく、生き生きとした生活と幸せを掴むことが出来ます。

 若い方なら、自分自身の好きな仕事や家庭のために、また隣人のために、生きる目的も見いだしやすいです。生き甲斐を見いだすことは、日々の積み重ねです。近代の日本の労働条件は乱れてきています。しかしながら、ハッキリとした目的を持って取り組むなら、困難は乗り切れます。時にはその困難に打ち死枯れそうにも成りますが、あなたが真剣に立ち向かい取り組みなら、それらを見ている隣人が助けを・・知恵を授けてくれます。その背後には、神はあなたを支え守っておられます。

神は自由を私たちに与えてくださいました。その自由な中から、神が喜ぶ、また隣人が喜ぶ、自分も満足、平安を得られる人生の目的を持ちましょう。

神は私たちがこの世において、エデンの園のように過ごすこと、神との交流を望んでおられます。 そのことを望む人々には、今まで知らなかった道、人生の目的を発見できます。あなた様の幸せのステップが益々豊かに成りますように。

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 神の形に似せて創られた。

神はこのように、人をご自身の形に創造された。創世記1;27

私たち人間は、神に愛される存在として創造されました。 何の意味もなく存在を許されているのではありません。 生きてるだけでも、神の目から尊くて存在価値があるのです。

病気から植物人間と言われる方もおられるでしょうけれど、確かに看病することは大変ですし、安楽死を望む方もおられるでしょう。 安楽死で楽になるのは残された家族ですが、亡くなった後の悲しみはもっと苦しいです。

今から30年前の事です。私の妻が癌になって死の宣告を受けた時期があります。それも生きているからこそ、望みがありました。!! 生きている事に価値がありました。私に取っては生きている限り愛する事の目的でした。

神はアダムとエバをエデンの園を守るように命じられました。エデンの園には一つの川が湧き出て通ってエデンの園を潤していました。 その川は4つに別れ出ていました。

一つの川の名前はピション=成長という意味。 ハラビ=希望という台地を潤していました。 

第二の川はギフォン=溢れ打ち破ると言う意味。クシュ=祝福という台地を潤して流れていました。

第3の川はヒデクル=代々という意味。 アシュルの東を流れていました。

第四の川はユーフラテス-増し加えられると言う意味

エデンは喜びと言う意味です。 神は私たちに素晴らしい生きてゆくための環境を与えられるのです。 今、あなたには不満があるかも知れません、しかし、神を求めて、あなたの与えられているエデンを守り耕すなら幸せは必ず来ます。だたし、神との契約を守らないといけません。 食べてはいけない実のみがあったように。それは自由と服従いう名の契約の中です。


  神は、肥沃な川の流れの塵<チリ>から人を創られた。

『神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻に息を吹き込まれた。そこで、人は生き物になった。』聖書 創世記2:7

 このようにして最初の人アダムは神様の手によって、神様の形に似せて造られました。

日本、ギリシャの神話などでは、神と人の血縁関係を伝える場合が多いです。聖書の人間観は、神によって造られ、血縁関係はないのです。しかし、神の息(霊)を吹き込まれたことによって、神に等しい霊的なの存在となりました。 それは人間以外にはなく、他のの動物とは一線を別け隔てています。ここに人間の尊厳性と微弱性が在ります。

神によって造られた多数の動物とは違い、神の霊を吹き込まれた者として、寵愛を受ける存在なのです。

一人でいたアダムに助けてとして、彼を深い眠りに落とし入れた神は、彼のあばら骨から女、エバ<血肉という意味>を造られました。 

前記の豊かな川の中に有ったチリ、鉱物ミネラル成分が、私たちの身体の元になっています。アダム以外の人間は、その母の胎の中で、まるで土を練る上げるようにして形が造られて生まれます。 『男はその父母を離れ、妻と結び会い、二人は一体となり・・』創世記2:24 神は結婚することを、子供を作る事を願われ祝福されました。

人間はその存在そのものが、神から見て尊い存在なのです。

 神は一人のように思われがちですが、聖書では3つの人格をひつとの神としています。

創世記1:26には 我々に似るように人を造ろうと語ったと書かれています。 聖書の神の概念です。

創造の父なる神、子供成る人格の神、キリスト。そして聖霊成る人格の神、それは私たちの助けてとしての神様、聖書では追求してはいませんが、私個人的には、どうしても母のような存在助け手をどうしても創造してしまいます。聖書で神の呼び名は、原語古代へブル語ではいくつかの呼び名があります。絶対口に出来ない神聖な呼び名でした。 そのために、なじみやすい別名で表現をしたこともあり、一人称や三人称で聖書に記されました。

聖書はモーゼがシナイの山で、神エホバに遭遇したときに、この創世記を記しました。聖霊の助けによってのちに、聖書は66巻に纏められました。 世代や時代を超えても目的は一つで、、私たちの救いとキリストの栄光です。 聖書に記されて、消えていた歴史、遺跡なども、あり得ないと思われても、考古学発掘が進んでいくと、実際に発見されたという事実が、聖書の正しさを知る事が出来ます。

2014年2月23日日曜日

@ 私たちを見守る神

NO16 私たちを見守る神

 創 11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

 前記には、神は人はすることや止められないだろうと嘆かれています。
神が耐えられた自由を行使するときに時には,神の思いとは掛け離れてしまうことが有ります。  全地に人々が広がるように計画をなさった神ですが、バベルの塔を作り1カ所に留まろうとしたのです。神はその様子を見に天から下りてこられました。




神は人を殺すこと無く、その計画の中断させるために,一つの原語だった言葉を一瞬に多国語に切り替えられました。言葉を通じないようにし,建築中のバベルの塔を完成させないようにしたのです。

神ご自身が、私たちが何をしているのかを見守って居られます。  職場で・・その仕事ぶりに対して祝福を与えようと。時には天使の助けをおくられます。商売の成功、繁栄を与えようとして下さいます

家庭にも神は天から降りて来て,私たちを見守られます。家族に対して愛を持って接しているのか?一人いる台所。居間にも神は下りてこられ。私たちを見守られます。私たちの思いを知って下さり、私たちの計画を知ってその動機を見極められます。正しい事なのか?動機は何であるかを・・見極められる神です。  神は正しく,その動機を見極めて,正しく罰することが出来るお方なのです。


天から下りてくる神は、キリストの受肉を持って私たちの住むこの世にも下りてこられました。私たちの罪の身代わりの死を持って黄泉の世界にも下さったのです 。
絶大な神の大きな愛に感謝を捧げましょう。神の正しい判断と裁きにも、感謝を捧げましょう。また大きな試練に遭わないように,祈りも捧げましょう。



Ⅰコリ 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

ヤコブ 1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
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2014年2月12日水曜日

@ バベルの塔。止められない神の心。創世記11章より

NO15      バベルの塔。止められない神の心。

創11:5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
 11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
             

  バベルの塔・・神は人々を祝福して、全地に人が広がるように計画なさいました。
けれど、人々はその神の意志に反して,1カ所に留まろうとしましたね。
最初に神が色々計画なさっていても,私たちには、自由人としての存在を認めておられます。奴隷ですと全く自由は無く,一方的に神に聞き従うだけになってつまらない人生になります。  命をかけてまでも,自由を求めた歴史が沢山在ります。

奴隷の身分が如何に自由が無いかは皆様はご存じだと思います。  
テトス2:9 奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、

私たちには自由を与えられて、創造されました。アダムも、選択する自由が当たられていました。     神はこの様に語って居られます。『この園にある物は自由に食べる事が出来ます。しかし、善悪の実は食べてはいけません。』自由によって、神に聞き従うことが許されていました。

画像中央左は私自身です。イラク・サマラーのミナレット

バベルの塔でも、同じように,神の意志を聞いていましたが,従うことを当時の人々は拒否したのです。
父なる神は,ご自身の契約に従って大洪水で,人を滅ぼすことしないで、彼らの共通語を乱して意志のそつが取れなくしました。

 その決断をなさる際に,神は人々・・私たちの様子をご覧に天から下りてこられたのです。驚くことです。けれどそれは、今も同じことが起きています。 
天から下りてくる神。キリストご自身も天から、人の子として生まれてくださり,私たち同様の生活と苦しみを知ってくださいました。ハデスに留まっていた者達のとこまでも落ちてくださったのです。

いまはキリストの代わりに,聖霊様が,私たちの助け手、助言者です。私たちの中に下りてくださって,キリストを信じ救われた私たちの中に、聖霊の宮となった私たちの中に住んでくださる聖霊様です。
そのこと知り、神の声を聞き分けるためにも聖霊の助けは不可欠です。聖霊によって書かれた聖書には聖霊の助けが一番です。
また誰でもが抱く共通の理解点も大切です。勝手な解釈は許されません。
災いは神から試練としてくる場合もあります。けれど神が計画した災いは、ヨブ記に書かれているように,むやみやたらな災いは無いのです。命に関わることは無いのですね。

  聖書にも,耐えられない試練は無いと書かれています。
Ⅰコリ 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

在る有名牧師はいきすぎた発言をしていました。『地震で日本が地震被害を受けたのは,神の試練だ!悔い改めるべきだ!』と言ったそうです。神はむやみやに人を殺さないのですし、一人でも救いたいのです。  素意のために私たちは神の御心知り,神の意志に従って生活して,福音を伝えていきましょう。


2014年2月11日火曜日

@  民族は一つから始まった。

 NO14     民族は一つから始まった。

創 10:1 ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに息子が生まれた。

創 10:5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。

 神様は洪水後に,ノアの家族を祝福なさいました。 その子孫が世界に広がっていきました。子孫の名前が土地の名前になっているところがあります。
民族の分布には,神の隠されている摂理があります。
イスラエルと他の民族との関係を示す家系図です。
アダムからノアに受け継がれて神の意志と祝福。一組の夫婦,アダムから生まれて世界に広がったことを示されている。



A、ヤペテの子孫は、エーゲ海周辺からカスピス海。ヨーロッパからインド辺りまで。
B,、ハムの子孫はカナン地区から南。エチオピアとかスーダン方面に。またエジプ、トリビア地中海北アフリカ方面にも広がりました。
B,ハムの子孫は、アッシリア バビロン方面 小アジアなどに広がりました。

 現在、世界には多種多様な民族と言語があります。けれど、、一つの家族から生まれて派生していることが聖書には書かれています。神の救いの摂理、神の願いはアダムから生まれていることが分かります。

パウロは宣教している中でこの様に伝えています。
使 17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
 アダムに約束した救いの御業がキリストによって完成しています。それを伝える事が,私たちクリスチャン一人々に与えられている世界宣教への課題・・責務です。

マルコ16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい

 この10章では,、ハムの子孫。ニムロデの名前が特筆されて祝福されています。
創 10:9 彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。
私たちが何か事業とかで成功を収めたときには,園は以後には必ず,神の計画とか祝福が在ることを忘れてはいけないのです。

ハムは、ノアを軽視して、罪を犯しました。(十戒から・・両親を敬う事への軽視)

それをは跳ね返すような祝福を、その子孫が受けています。
 神様は呪いを変えて,祝福に変えてくださるのです。
ここにも置かした過ちや罪は,個人個人の責任と悔い改めが必要である事を示しています。

神の素晴らしい愛と計画に、心から感謝と讃美を献げます。

2014年2月5日水曜日

@ 新たな虹の契約。

NO13 神様は何故? 新たな虹の契約

創 9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。

神様は、洪水後の世界をあらゆる新世界に対しても期待を持たれて事が分かりますね。
新しい契約の印として、 虹を大空に雨が降った後の大空に設けられました。

神様は何故?虹の発生を新しい契約になさったのでしょうか?
虹の発生には3つの条件が必要ですね。適度の雨。適度の雲。太陽の光。

 画像は彩雲 







雨の一滴は,集まって川となり色々の汚れを流します。   それは,私たちの頬を伝わる、悲しみの涙の様ですが、神様はそれを知っておられて、慰めと言う大きな祝福に変えてくださいます。

雲は・・私たちの人生に立ちこめる暗雲さえも、神は試練いう形に変えてくださいます。
神様は闇雲に試練を与えたいとは思ってはおられません。これはヨブ記の冒頭に書かれています。サタンの挑戦から,私たちを守ってくださいます。

太陽の光が無いと虹は輝きません。暗雲も一滴の雨も,この光が無いと輝けないのです。
私たちの試練や苦しみ。涙する日々も、神の栄光という光で輝きに変わるのです。

それは父なる神とキリスト。そして聖霊の神はご一緒で在るかのように、虹も三位一体の神と私たちの関係を表しているようです。

洪水後に、神様はエデンの園でアダムを祝したように、私たち人類を祝福なさいました。
創9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。





 神は新しいエデンを創りたいと願っておられて事がよく分かります。
強制的に、この世界壊さないことも誓われます。歴史を見ても神の怒りは忍耐によって・・その故に私たちは,現代まで生きながらえています。

創 9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

神が正しいと認めた人。ノアでさえ、自制を失う事があります。農業を初めて,ブドウの収穫をしました。それで始めてのワインに喜びましたね。でもその喜び強くて、彼の自制を失わせたのでしょうか?
 私たちにも,これは教訓として心に留めておくべき事ですね。

ハムは父の裸を見て侮りました。私たち日本人は、温泉、銭湯などで他人の裸を見変えていますけれど、中近東では他人の裸。同性であっても見る事はほとんど無いです。
何が問題だったのでしょうか?十戒を見てみれば、父親の尊厳を軽視したことが,罪となりました。この箇所に明記されず、俗説には性的な罪を犯したとも言われていますが、、。これも十戒に記されていることに通じています。
ここで注目は、罪を犯したのハムであっても,その子供、カナン子孫に呪いの言葉が語られています。9:25 後にハムの子孫 カナン人等の倫理的品性の預言を語られています。
呪いは,その子孫 四世代まで 祝福は1000代まで及ぼします。続く,10章にはカナンの子孫にも,神の恵みと力添えがあります。神の力で,のろいが祝福に変えられたことが記されています。

申命記23:5 あなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。

 神様は,私たちの呪いを祝福に変える事が出来る神で在る事を讃美しましょう。

2014年2月3日月曜日

@ 箱船の中では・・

創8:1 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。

 箱船の中で過ごしていた時間。神はノアと共に箱船の中におられたのです。ノアだけでも無く、神は動物たちにも神の心が向けられていたことには驚きを隠せないと思いませんか?  一羽の巣の雀にも,また私たち一人 一人にも 目を・・心を向けてくださっておられる証拠でもあります。   
マタイ10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

出エジプト2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。
 2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
 2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。
            


  短く記されている聖書の言葉には,神の温かい心中が記されていますから感謝です。神は私たちの心労や日々の生活の中で次々と起きてくる問題にも心して,解答の時期を見計らっておられます。

神はその御手で天の水門を閉められました。水が引くまでの期間。箱船の中では、神様は濃厚な特別な時間を過ごしておられました。

鳩がオリーブの若葉をくわえて、ノアの元に戻ってきました。8:11
このオリーブの木の種は、アノ自身が蒔いた物ではないと思います。 ふと福音の種を思い起こさせました。一見無駄と思える・・結果が直ぐに出ないと思える福音を種を誰からが蒔かないと刈り取り実りが無い事を・・

創8:18 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。
 神がのアノ側におられて事を前記に書きました。それでも神の命令。一言が無いとノアは外に出なかったのです。  親しい間柄になるとこれ位はいいだろうでは無く,神の意志に従ってことが分かります。

 それは自由人としての権利と意志が神に与えられていますけれど、ノアはその自由な意志によって,神に従っていました。 箱船を作らないことも出来たのですから・・
 ガラテア5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
  箱船は,十字架の購いと同じです。キリストの十字架と言う箱船に入り、贖われ救われます。私たちの自由な意志でキリストにしたがって生きることが重要です。
そのことを現すかのように、ノアは箱船をでた第一歩後に、祭壇を築いて神を礼拝しています。
創8:20 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

私たちも日々の第一歩を歩み始める前に,主のための祭壇を築こうではありませんか?
神を礼拝する場所を,各自の奥まった部屋に祈りの祭壇を築きましょう。でも主の祭壇で無いといけないと・・自分のための祭壇、祈りではあってはいけない思います。

 皆様の上に、神の豊かな祝福が有りますように。祈ります。



2014年2月1日土曜日

@神の声を聞きたい。創世記7章から


創 7:1 主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。

私たちは、神の声を聞く事が出来ます。神との距離が近い。また神の目から見て正しい人の恵みです。キリストの清い衣を通して、父なる神は   私たちを清い者としてみて下さるので,神の声を聞く事が出来ます。

しかし、神の声の多くは細くて小さい事が多くて,気がつきにくいこともあります。
(Ⅰ列王 19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。)
注意深く、何時声が掛かるかも分かりませんから、何時もその備えも必要ですね。
神の声は突然、私たちに向けられて発せられることも多いです。

神の声を聞き分けて、それに従うことをしないと・・折角の神の声も次第に遠ざかっていきます。聖霊は気ままな風のように移り変わります。 


創7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした
父なる神が、ノアに命じたことは 並大抵のことでは無いのですが、ノアは完全に、その命令に従いました。   大型タンカークラスを,僅かな人数の家族で作り上げただけでは無く、あらゆる動物を集めて、箱船に収めたのです。
   動物を集めるだけでも大変ですね。猛獣もおとなしくしたがっていたのは、神の助けがあったと思います。

創7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。
ノアが,神の命令通りにしたときに,箱船の入り口が,神の手によって,外側から閉められたことは特筆すべきですね。
箱船の記録は、神の手によって書かれた物だと・・

繰り返して,神の声を聞ける立場を,キリストによって与えられていることも、・・
神の声を聞けるように,何時も備えをしておきましょう。また声を聞いただけでは無く実行できるようにも・・

2014年1月28日火曜日

父なる神の愛の物語 ミカエル小栗: @ ノアの決断

父なる神の愛の物語 ミカエル小栗: @ ノアの決断: 創世記 7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。 神がこの世を・・エデンを作られた時には、アダムとの共存を僕や奴隷としてでは無く、自由人として心に決めておられました。 折角。与えられていた自由をアダムは、サタンの誘惑のために使いました。 その後、サタ...

@ ノアの決断

創世記 7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。

神がこの世を・・エデンを作られた時には、アダムとの共存を僕や奴隷としてでは無く、自由人として心に決めておられました。
折角。与えられていた自由をアダムは、サタンの誘惑のために使いました。

その後、サタン・悪霊達は人々の心に足がかりを持てる権利を得てしまいました。
結果、最初に,神様が計画していた人とは違い,悪ばかりを繰り返すように成り、神は一端リセットなさろうとしました。

その中で独りだけ。ノアを見いだされてました。
当時の悪い世代の中で,ノアも悪い物を見聞きしていたと思いますが,彼はそれらをはねつけて遠ざけていたのですね。

神は,ノアに現れて,一つのことを、箱船を作る様に語られ命じられました。

            

箱船は大型タンカーですね。それを作りには,現代でも大勢の人が掛かってさえも1年~2年掛かります。それは僅かな人数の家族で作りのですから、想像を超える物だったと思います。

多くの年月を要している間には,当時の人々は,ノアをあざ笑うだけでした。
神の願いは多くの年月を要している間に、独りでも悔い改める事を願っておられたことも理解できます。

寸分違わず,箱笛を作り続ける事は大変ですし,信仰を保ち続ける事も大変ですね。
命じられたことを,士気を下げないで実行。ビジョンを保つことが如何に重要であるかが分かります。

あらゆる種の保存さえも命じられました。それらを数名の家族で集めることも大変な作業と日数が掛かります。

ノアは着実に 創世記 7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。と記されています。

私たちは聖霊によって助けと導きがあります。それらを知り,従っていく為の助けです
ややもして・・それを気がつかないで過ぎている日々が在ることも事実です。この点を,神に祈り気がつかせて頂き,実行できるように祈りませんか!


創世記 7:10 それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。

私たちは神からのビジョンを遂行実行中は,生き生きしますね。
けれど、何故か? 沈黙なさるときがあります。この時期が大きな試練です。

箱船が完成し,種の保存のための動物を全て箱船に治めました。
終えてから最後の沈黙がありました。箱船のとを封鎖してから、雨が降りませんでした。

その七日間はノアとその家族が信仰を・・神の言葉を信じ続けることを試されました。

例えば・・アブラハムに,神は子供を与えると宣言約束なさったのに,実行されるまでには,25年の年月が掛かりました。この年月は人それぞれで違います。

神の命令に・・ビジョンに従っていても,突然の沈黙に私たちは耐えて。信仰ビジョンを保つ必要が在る事があります。
あなたの自分の試され忍耐が必要なときのために備えていきましょう。

私自身も,神戸で開拓伝道するときに,40日の断食を2度しました。その時に与えられたビジョンが実行実現できない状態が長い間。続いて居ます。でも諦めないで祈り忍耐をしています。
勝手ながら、どうぞ、覚えて,ご加祷を賜りますように,お願いいたします。




2014年1月24日金曜日

@ ノアの生き方。創世記6章

6章に入って3つの記録が 目にとまります。

人の齢が短くなる。

3節には、人は、その生き方に責任が問われる事、責任を負わなくてはいけない。
神に捧げて人生をおくる責任があります。身勝手な生き方を神は好まれないのです。

500年から1000年 生きていた人は、神の意志で,120年を境目前後。制定され変更されます。3節 神の子たちがあまりにも気ままに結婚することから風紀の乱れを憂いをされた神様がおられます。

申命記      新共同訳
32:5 不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。32:6 愚かで知恵のない民よ/これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父/あなたを造り、堅く立てられた方。

神の意志に従った人健康的に生きた人は、この地上でも120年以上も長生きしていた記録もあります。  神の意志を変えるほどに,当時も・・現代も・・悪い時代に入ってきているのかも知れません。

   神の心「私の霊は、永久には人には留まらないであろう。」神は,私達一人々に注視して忍耐もしておられるのです。

5節には、『ご覧になったとも書かれています。』

神の憂い、悪がはびこる時代

 4節からは、ネフィリムの身勝手さがが神の心を損ねたこと,心痛められたこも書かれています。

8節から登場する  ノアが主の心にかなっていたと書かれています。
「朱に交われば赤くなる。」と,ことわざが示唆ように。 罪の生活を続けていると感覚が麻痺してきます。それが当たり前のようになっていきます。それが廻りにも影響を与えていきます。神の心から離れた生活をしている人々の中で、一人だけが正しく御心に叶った生活をすることが困難だったのです。

                   

神の心にかなうように努める

 しかし、ノアだけが,神の心にかなっていたのです。8節には「ノアは、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神と共に歩んだ」と書かれています。
たった一人が・・ノアだけが正しい人であると認められる。周囲の人々は一体どの様な生活、心で過ごしていたのだろうか? アノだけしか残っていなかったと・・神の深い悲しみ落胆は・いかなる物だったことでしょう。 
罪を犯したアダムから受け継いだ・・祝福と罪の報酬・・気を付けて各自の心を見張る事をしないと・・悪の想いが増大することも6:5には暗示されています。
さて、ノアの心にも,この性質は受け継がれていたのです。けれど、彼は努めて悪い事にも心寄せないで、彼が意識してそれらの悪い事から恥ずべき事からも距離を置いていました。義人と認められるのは、当時はノアだけでした。
今日。神の目を喜ばせている義人は何人居るのでしょう?
神の赦し。十字架の購い無しでは,義人は一人も居ないのです。

ロマ 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

キリストの血の代価で,買い取られた私たち。クリスチャンは神に感謝を日々すべきです。

ロマ 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

Ⅰペテ 3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」

  ノアは最初から義人としては認められていなかったのです。しかし、神に近づき、御心に叶った生活を続けていきたいと強く願っていたことが。彼の周囲を取り巻いていた悪のの環境からも,逆に理解できます。 誘惑には弱い私たちですが、 ノアのように神の認められる生活を送れるように祈り神の助け・・私たちの助けてで在る聖霊様を,日々の生活の中に歓迎して、そのお声を聞き分けられるように訓練していきましょう。


ヨハ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

2014年1月17日金曜日

@ 神が取り上げたエノク 創世記 5章より


  神が取り上げたエノク
 創5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

  創世記5章に入ると人名系列が書かれています。それぞれ1000年近く長生きしています。その中で一人だけエノクは死んだとは書かれないで,神が取り上げられたと書かれています。 彼エノクは神とともに歩いたと書かれています。 英語聖書 Today’s English Versionではこの様に書かれてありました。
Gen 5:24 He spent his life in fellowship with God, and then he disappeared, because God took him away.

   his life in fellowship with God, エノクの人生は、神の教え従って歩いた以上に、神様との交わりに尽くしていた生き方だったことが表現されていました。


  Going my way 我が道を行くでは無い生き方でした。
 まさに、  My way of life that is in God 神の中にある私の人生・・と言う生き方です。



 エノクは、日々。神様の意思を聞きながら従っていた様子がうかがえます。ある日だけ、ある時期だけを神に従っていたのでは無く、彼の長い人生の全てを,神に付き従っていたのです。
365歳の時に「神に取られた」のです。エノクという意味は従う者の意味。

  一発屋とか花火のように,一瞬輝いた人生では無く、毎日が神に従い歩き、輝いて今のです。私は、アメリカの日本人教会を巡回して伝道したことがあります。

 その一つの教会は、アメリカ人の教会堂の一部を借りていました。沢山の小礼拝堂と共に2~3千人収容の体育館ほどの大きな礼拝堂がありました。その大きな礼拝堂を建てざるを得なかったリバイバルが去って仕舞い、集まる人は1000人に満たないと聞きました。
  
 その会堂の中心に座って祈ったときに、神の計画という言葉が心に響いてきました。

神の御心に従って計画を立てることを,私たちは忘れてしまうことが如何に多いことでしょうか?

 神に従ったときには,聖霊の風は吹きますが、教会員や指導者が,少しでも御心から逸れると、聖霊は御心の好み所に向きを変えてしまいます。

 生きている間の全ての日々を,神の御心に従い歩く事が,私たち人間に困難な事と思います。それは、各々が自分中心に考えて,思考して生活することが楽になる性質が、アダムの罪からの遺産・心根が引き継がれてしまったのです。

 神にに従うことは日々。自我との戦いの戦場に行くことです。
エノクはその戦いに勝って,御心中心の人生を委ねたのです。神はそのことから、死んだのでは無く、神の側に引き寄せられたのです。アダムには与えられなかった恩寵が、エノクには当たられたのです。

 私たちの少しでも神に近づく生活をしていきましょう。その決心に聖霊様が、私たちの助けてとして,キリストに変わって多くの天使と共に来て下さいます。
少しでもエノクのように,人生を生きて終えたいと思いませんか。

神様は一人一人の名前を覚えて記録なさいました。
私たちの名前も同様に覚えて下さって,生き方も見ておられることは非常に感謝な事です。


*エノク書という聖書外典があります。エノクが天に上り神の書記官として用いられて,天国の出来事を地上に示したと書かれた内容です。けれどその内容を,主イエス様は一切。(外典からは)引用なさいませんでした。主キリストに習って外典から引用したり説教をすることは避けたいと,私は思います。





2014年1月15日水曜日

@ 祝福の名前と家系 創世記 4章

  神の願いは、祝福を与えたいと・・創世記4章から・・・

 前回にはエノクが神から時別に愛された、取り扱いを受けたと記しました。
このエノクは、アダムに生まれた新しい子供。三男として生まれた子孫のことです。

エノクと名前の意味は、奉献する。とか新しい家<家系>を築くという意味があります。

聖書には4人のエノクが登場します。カインの子供にもエノクがいました。父の荒々しい気性は受け継いでいました。 親が願う子供の人生にふさわしい名前を大概は付けますね。 例えば、ユバルと言う名前の子供が生まれ、美しい声という意味の名が付けられ、人類初音楽家となり、トバルと言う子は、物造りの意味があります。鉄を扱う意味もあり鍛冶屋になりました。

カインから生まれた子孫の中に、レメクがいました。彼の名意味は「強烈な意思の意味を持つようになる。」です。歴史の流れの性格さえも現すようです。カインの子孫はカナン人と成り、後にアブラハムの子孫に敵対するようになります。

神は、カインを人が過って殺さないように定めました。

しかし、このレメクは言いました。「カインに7倍の復讐が在れば、レメクに77倍の復讐。」と言いきっています。 神の意志は、罪を犯したカインさえも罰しないで、天寿を全うさせ、人が過って、彼を殺さないように、身体に印を付けましたが、レメクは、神の意志さえも無視した強烈な意思を持って生まれました。地上の人間生活の進歩、文明形成を行いました。しかし。神本来の意思を無視しました。
  
*************************

神の願いより呪いを倍にしたレメクがいます。

時々、「神は何故戦争をなくさないのか?」 何故人は不幸なのか?似たような質問疑問が枠でしょう。 けれど これらは天の父なる神からの本心からはかけ離れていると思います。さも神に、原因があるかのように、考えがちですが、決して神の本心では無いのです。

カインからの気質は、少なくとも人間の中に、種として植え付けられてしまいました。サタン悪魔によって、エデンの園の過ちから、誘惑から始まったのです。神からの気質も本来はあり、人と愛する事、自由な選択する力も持っています。しかし、悪を行う力も同時にサタンから植え付けられました。

両親から引き付いた気質は、私たちの中にもあります。幼い時に、両親の嫌さ性悪を見て、自分はあんなふうには成りたくないと、皆さんは思ったことが大なり小なりありませんか?親か叱られて、嫌だと想っていても、自分の子供には  よく叱り・・離婚した親を見て、嫌だと想っても、その子供の中には離婚をたやすく考えてしまう傾向がありようです。< 念のため、全てではないです。>

解決は、エデンの園で契約された、新しい契約の救いを持つことです。創世記3:13

救いの力、サタンノ頭を砕く力は、神の子キリストだけです。

自分では解決できないと想えるどうすることも出来ない気性の問題も、

キリストには家系の呪いも解決の力が在るのです。

 神の祝福を受けることは、その個人成らずとも、家系に対する祝福となります。

アダムの第3子。セツ 意味は「授けられる、生ませた者。」 と言うこともが生まれます。神は長男のカインよりは、この子供に祝福をおかれて、神の願いを託されました。

生ませた者から生まれたセツの子供には、エノシュと名付けられました。人という意味です。アダムと同じ意味合いです。このエノシュは自分の弱さを自覚したのでしょう。神を求めての礼拝を始めます。創世記4:26

創世記5章に入ると、これはアダムの歴史で在ると書いてあります。 ここでの歴史とは、へブル語ではトーレドースが用いられます。生ませし者の意味です。 これは歴史という意味とも成ります。ヒストリーHistoryとは違う意味です。キリストHis story 彼のストリーが英語では歴史の意味です。キリストの物語が歴史の語源です。 アダムからの家系がキリストに受け継がれる歴史でもあります。

セツの子供たち、孫達は長生きして、800~1000年の長寿でした。

その子孫の中には、レメクがいました。彼は長生きを苦しみと感じて居たようです。沢山の子どももいました。そうではなく喜びと感じる子供も居ました。その一人がエノクでした。 (カインの子供、子孫のエノクとは違います。)エノクは神と共に歩み、神に喜ばれました。神は彼を生きたまま、天に召されました。神と共に歩む事が長生きしても、喜びと思えることが非常に多いと言えます。

彼の子孫には、ノアが生まれました。慰めの子という意味です。 神からの罪の呪いはありましたので、額に汗する耕すことの労働は在りましたけれど、ノアはそれらの苦労を慰められたと言う意味を持って生まれました。

ノアには、セム。ハム。ヤペテの子供が生まれました。

親としても幸せを子供に受け継がせることには、昔も今も代わりはないですね。
少しでも神に祝福された霊的な財産を受け継がせることが。次の幸せにもつないでいくことになります。

あなたはどのような祝福を、あなたの子供に受け告がせる事が出来るかを、静かに考えたことがありますか? あなたの信仰を1番の遺産として,子孫に受け継がせていきましょう。

神である天の父、創造の主キリストに,助けと祝福を求めましょう。

2014年1月13日月曜日

@ 捧げ物の心 創世記4章から

 捧げ物の心

創世記 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、
 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。


  私たちからの捧げ物を、神様は喜んで受け取って下さいます。
しかし。その心根。私たちの隠れている心底を見つめておられるのです。私たちには嬉しい事であり、吟味される私たちの心底に良くない想いがあるのならば・・形だけの捧げ物。何かやましい心を持ち合わせていたとしたら・・その捧げ物は、神様をとても悲しませる結果となります。

 
神様は何故?アベルの捧げ物を喜ばれて、カインの捧げ物を拒否なさったのでしょうか?
  神のお心を確かめることは出来ませんが・・
羊・・初子は羊飼いにとっての労働における最大の喜び。しかも、初子の中から,考え 考えて・・思案し尽くして・・最上の子羊を選びました。(沢山いた羊では無く、少ない羊の初子だった可能性があります。後に・・イサクヲ献げた,アブラハムの心情にも通じています。)

  一方、カインは地の作物から選びました。カインの心情推し量る言葉は書かれてはいません。聖書に書かれていないアベルへの神からの賞賛の言葉が、カインを逆上させた可能性もがあります。カインは反省、悔い改める事も出来た選択を、間違った選択をしてしまいました。その結果。弟殺し、人類初の殺人がおこなわれてしまいました。

 このアベルとカインの真実は、私たちが神に捧げ物をするときの警告でもあります。
神様は、私たちに自由を与えて下さいました。その自由によって、神に感謝の捧げ物を出来るのです。
その自由に寄って、最も愛する人に、何か・・自分の気持ち。心を伝えるために、何かを贈るとすれば、色々考えて最良の手段や品物を選びに選ぶようになるでしょう。
同じ献げるのであれば、神様に喜ばれたいですね。


アブラハムの捧げ物
アブラハムが戦いにでて、敵からの戦利品の10分の一を,彼自身が決めてシャレムの王メルキゼデクに<いと高き神の祭司であった。>捧げ物をしました。
  
創 14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

出エジプト記 レビ記の時代には,捧げ物の十分に一は、ユダヤ人の中では慣例化 律法敵に変わっていきました。

  ダビデは,幕屋の神殿で讃美の生け贄を・・ソロモンもその神殿で讃美の生け贄・・心の生け贄を献げて、神はその喜びを神の霊で、神殿を満たされました。

やもめは,その日。食べる分の生け贄、献げ物をして,イエス様から金額や品物では無い,その心を喜ばれました。

 一端。献げた献金は神の物です。厳粛に扱わないと,その罪は私たち自身に降りかかります。信仰によって、導かれ献げた献金には,神からの祝福が伴います。
  
献身に 人生の捧げ物

献身は何も、牧師 司祭や神父だけでは成りません。それぞれの人生を神に捧げることが献身です。
職業を選ぶときには、与えられた環境、賜物、趣味趣向 あらゆる事 条件から自由に選び出して職業を選び,神に献げる仕事選びをするならば,それがあなたの献身と成り、神からの祝福を受けるのです。神は、私たちを祝福なさりたい。これが本心です。

 神様は、私たちの真摯な心や態度。悔い改めを大層喜ばれます。逆に、神の愛と契約と拒否するならば・・それは永遠の死です。 神はとても素晴らしい愛を人生を与えられます。
愛を注がれる反面。妬む神、厳しい裁きの神で在る事を覚えて頂きたいのです。

2014年1月9日木曜日

作詞。あなたは何処で、私を見て居るのですか?

私は重い病です。これは心の旅路 にリンクしています。

私の命が消えるかも知れない不安で一杯です。

何故?こんな時に・・
ようやく宣教活動、伝道を始めようとした矢先です。
多くの人の祈りの支え,尊い献金によって神学校を卒業して・・
癌の宣告に不安に倒れそうです。

暗い夜道で,先が見えないのです。
恐れと悔しさで一杯です。

何故こんな時に・・未だこれと行った宣教活動もしていません。
このままガンに負けて死にたくないです。

父なる神よ。あなた絶望的は母の痴呆症 記憶喪失から回復させられました。
しかし・・今日の私にはそれさえも,遠い日のようです。

絶望感に打ちのめされそうです。今まで支援して下さった方々の顔を思い出しもします。
支援したけれど・・彼が死んだのは,御心ではなかったのだ!と言われそうです。

試練の時に,私を呼べと聖書には書いて有るでは無いですか?
今。祈っても,天上に祈りが跳ね返ってきそうです。
絶望感で先が見えないのです。

エリヤが砂漠に逃げたときに、あなたの細い声を声を聞いたと聖書には書いてあります。
ヒゼキア王の命も、あなたが,王に死を宣告後に,お気持ちを変えられましたね。

それは私には無縁なこと?関係の無いことですか?
苦しいです。あなたを疑いたくないのです。
けれど、あなたの無言が続けば続くほど,信じたい気持ちと不信仰の波に
私は翻弄されています。

どうすれば良いのかも判断が出来ません・・。

キリストの名によって,聖霊様、あなたが私たちの助け手と成って下さると
語って下さいました。

どうが、そのことを私の身の上に現して下さい。
あなたの御名が崇められるように求めるようにも,主の祈りを教えられたでは無いですか?
重く暗い気持ちに押しつぶされています。
祈る勇気さえも,失っています。

祈っても答えが無い事が怖いです。確かにあなたを信じて、永遠の命を頂きました。

喩えの無いほど感謝です。けれど主イエス様。 この世で生きている間に、あなたの栄光を見たいのです。魂の救いが無くして,癒やしも虚しい。つかの間ですが・・ でも今日。私はこの様で生きていますから・・ 今。あなたの栄光が見たいです。

すると神は、私に独りの男が、深い谷間を歩いている姿を見せられた。
それはダビデ王だった。戦いに疲れて孤独と闘いながら歩いて居る姿だった。

しかし,彼の前方には,その深い谷間を抜けたところには緑の牧場が見える夢だった。
私のダビデ王の姿に,私を重ねて、徐々に希望を見いだした。
辛いこの時を,喩え祈ることが出来なくても,失望に打ちのめされそうでも・・

必ず,緑の牧場があるのだから、この場所。死の谷間に留まらず,前に歩こうと・・
ようやく、その決心が出来たときに・・「安心しなさい」と小さい声を聞いた。

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私の癒やしの体験です。胆石の手術するためにレントゲンをすると癌が見つかり,再度 MRIと血液は反応では癌でした。 しかし、手術の為に開腹手術をしました。医師が驚くほどに,癌の痕跡はあったようですが、その癌自体が縮小していました。















2014年1月6日月曜日

@ あなたの兄弟はどこにいる? 創世記4章

はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

  神は弟アベルはどこにいるのか と  カインに尋ねました。

この質問はエデンの園でアダムに問い掛けた言葉です。

カインとアベルは、その両親アダムとエヴァのように親しく神との交わりを保っていました。

忽然とアベルが神の前から消えたので、神様は心配なりアベルの所在を兄に尋ねたのでした。

 私は弟の番人ではないと言って拒絶します。

私たちは隣人に対しての責任があります。神様を礼拝に導き、その愛の素晴らしさを分かち合う責任があります。カインはその責任を拒否したばかりでは無く、人類初めての殺人を犯してしまいました。
                


 神が、私たちの一人一人を気にかけておられる大切な言葉。『あなたはどこにいるのか。あの人はどうしてるのかです』。

いつも神様は私たちのことを気にかけてくださっています 

聖書を見るとたくさんの名前が開かれています。神様は一人々の名前を覚えて気にかけておられる証です。

   私が個人が救われただけではなく、私たちの両親 兄弟 友人 職場の上司や同僚たちにも、神はその名前を知っておられます。私たちのが十字架の福音、救いを伝える事。

神は愛しておられることを伝えるのは,私たちの責任範囲だと思います。

  『主を信じなさいそう。すればあなたもあなたの家族も救われます』この言葉はとても有名ですね

また同じ信仰、クリスチャン同士が励まし合い、足を洗い合う責任が、私たちの信仰の交わりに含まれ展開されていくことが大事だと思います。

有るブログでは教会や牧師を非難する掲示板を見かける事も在ります。一旦インターネットに書き続けるなら、その記事は半永久的に残ります。足を洗い合う事は、責め合うことではありません。

目に見える者を、愛せない人は、直接。私たちの目で見ることができない神様をどうして愛することができましょう。


2014年1月5日日曜日

@ 目には麗しく、その要素は?創世記3章

アダムとエヴァはエデンの園で、

 ある日、サタンは エバに1つの実を指し示して、「神はあなたにエデンの園にある全ての実を食べてもいいと言ったのですか?」
と問いかけました。

 神様と親しく交わり、恵まれた環境中で食べることにも困らずに生活していました。アダムとエヴァはエデンの園で自由に木の実を生活をしてたのです。

豊富な木の実が有るために、神様が言われた食べてはいけない木の実には強い関心、注意が薄れていたような気もします。


2:16 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。


サタンはそこを突いてきました。

木の実を観て下さい。」大勢あるものの中から1つのものに注視せたのです。

エヴァの心は1つのみに注目してしまいました。その注目度は神の言葉を忘れるほどでした。神様から直接聞いていたアダムも神様の言葉を忘れてしまいました。

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

思うに私たちは見ることからまた聞くことから強い関心を抱くようになります。見てみたい!触ってみたい。食べてみたい。いろんな願望から欲望に変わっていきます。してはいけないとわかっていても、欲望に負けて第一線を超えてしまうのです。

1つのことにこだわりすぎると、心が病んでいきます。失望感を抱いたとしても、気持ちを切り替えないと、1つのこだわり願望に変わったとき。心が病む原因の1つになるのです。

9私たちには実に麗しい事。ためしたい事がたくさんあります。
自制を失ったとき、れは罪に変わる。

アダムとエヴァは、様から直接の声を聞いていたことさえも忘れてしまったのです。私たちは、理性を失ったとき、すべてのことが、自分自身の目に美く感じてしまうのです。

あなたは今どこ見ていますか。「神様から目を離さないで」いう言葉もあります。

ヘブル 12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

神様から目を離すことによって本来持つべき神の約束 祝福を失うことになるのです。

ある人はこのように言います。キリストを信じたけど良いことがなかった。その心の中にはキリストとまた別の物を見比べていたのではないでしょうか?神様が本当に見てほしかったところを見ないで別なものを見ていたのではないでしょうか?

前記のブログのように、あなたはどこにいるのかと神は私たちを探しておられるのです。

私たちを探しておられる神様のもとに帰りましょう。


イザヤ 59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
 59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

@あなたは何処にいるのですか?

『あなたはどこに居るのか』創世記3:9

 私たちは、神を求めます。 特に・・日本人はあらゆる物に、
神を見いだそうとしています。
見いだそうとするなら未だしも森の中に・・木や石を求めて,自分の神を作り出します。自然 動物界・・狐も神に成ります。

私たち人間の方が、神を忘れています。

 何故この様になったかと言えば、サタンが、神からアダムに託されたエデンの園を妬んで,その権利を奪おうとしたからです。

 天国で神に逆らい追い出されたサタンが,この世、エデンに行き場を求めたと思います。その時点では、サタンにはその権利がなかったのです。

 アダムに、神に対しての疑いを抱かせて誘惑。騙してエデンの園の権利を奪いました。 サタンは神のご性質もよく知っていたと思います。

その事は、エヴァを誘惑するサタンの言葉から想像ができます。
アダムは神との契約を直接かわしその内容についてよく知っていたと思います。サタンはその弱点を見つけ出して、最初にエヴァに誘惑疑いを持たせました。

 次にエヴァからアダムに、その誘惑の手が伸びたのです。アダムにとってエヴァが愛するものであり、彼にとっての弱点、油断させるものでした。

            




 ここにサタンの巧みさがあります。

神に逆らった後、彼らは身を隠します。アダムは、上からの信頼をたくさん受けていたことをよく知っています。けれどその信頼を裏切ったことを恥じて隠れたのです

けれど、神はアダムの探し求めて言われました。「あなたはどこにいるのか? 」

 私たちは、私たちを欺いた人、背信、反逆した人に対して、簡単には愛の言葉をかける事は難しいです。アダムとエヴァは神に対する言い訳をお互いを非難しています。

もう一度、繰り返して言いますが、神の方からアダム。人を探されたのです。当然ながら全能の神でですから、アダムが何をしたかを知っていましたが、あえて神様、ご自身がアダムを探して呼びかけられました。「あなたはどこにいるのか」

神はアダムを作られ、エデンの園を守るだけではなく、我が子のようにいつくしんで愛されておられました。

神の素晴らしさ、受けた愛をアダムはよく知っていました。
しかし、一瞬の迷いが、疑いが神との愛を自ら遠ざけたのです。にもかかわらず、神様の方から、アダムつまり私たちを探しておられるのです。


 神様との契約を破り本来はその場で命が終わるところを、エデンの園追放するだけですまされてのは、アダムとエヴァに対する深い愛からの思いでした。

創 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

将来にわたって救いがあることを新たに契約なさいました。


3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

エデンを追い追いだす際にも、深い愛を示され、1つの命を奪い皮の衣を作り着せられました。この獣が羊だったのかは書かれておりませんが、多分。聖書の例えからして、、。想像させる上の深い愛を感じます。なぜなら、キリストは神の子羊と呼ばれたからです。

もう一度繰り返しているならば、神様の問いかけは、今、私達に向けられていると思います。

「あなたはどこにいるのか?」 今日あなたはどこにましたか?
神様との交わり、祈りの場ですか?それとも・・・。

                  

2014年1月3日金曜日

@エデンの園に人を置かれて

創世記 2:15 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。


父なる神は天地創造後の最後に,人 アダムを創られました。

創られて目的は、神から託されたあらゆる物を管理して守ることでした。父なる神と直接と交わりと語らい用意されていました。

環境が整って全てが満たされていたエデンの園で、地上にあるの天国とも言われました。

現在の、私たちの暮らす環境とは掛け離れています。この現在の地上との相違を意識するならば・・

だからこそ、神と交わる,追い求めることが重要に成り、切に求める事が重要です。

求めるか?求めないかの結果の相違は大きいです。


創世記 2:7 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

息 とは聖霊でもあります。 聖霊は人の身体に命をもたらしたのです。これも原点です。
永遠の命の源が、聖霊様です。神の息なのです。 
在るべき姿の人間にもどるためにも聖霊の息は必要です。 キリストは語られました。

ヨハネ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。


私たちは、神に重要視されて創られた存在なのです。神の息が直接、鼻から吹き込まれた存在なのです。


私たちの身体は,エデンに流れ込んでいた,4つの川の塵から創られました。

私達の身体を構成している元素を調べていくならば、その4つの河の元素にたどり着くのです。

1980~イラクのヒートの町 ユーフラテス川 付近に滞在。




2014年1月2日木曜日

世界は、夕暮れから始まった。

神が天地を創られた

始めは光が作られました。しかし世界の始まりは闇でした。

そして世界は夕暮れから始まって一日がスタートしました。


1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

夕暮れから始まった。 光が創られもしましたが、第一日目は夕暮れ 闇 朝と順番にきました。


私たちは朝日を見つめて,希望や夢を抱く事が多いのでは無いでしょうか?

けれど神は夕暮れを先に,この世界にもたらしたのですね。
繰り返して、夕があり朝が来たと繰り返しています。

神の見方と,人の見方の相違も在りませんか? 人は朝から物事考えスタートすることが多い。夕方、夜になって,一日を振り返ること失意が生まれることが多いです。


神は夕暮れからスタートさせています。朝に成るまでは先は見えない闇の中でも,神は着実に考えて実行するプランを立てられたのでは無いでしょうか?

一日働いて、満足して夕暮れを迎えておられます。夕暮れ
闇の中で 蓄積されて計画の中で次の日を迎える

パッと咲いて散りゆくと言葉がありますが,多くの方々はこの様に生きたいと考えられるでしょうか?

暗闇の時に備えて準備をして,一日の始まりに輝く咲く花のような人生が、神の助けで,出来るのです。

闇は 夕暮れは 神と向き合い 心と魂を癒やす大事なときなのです。



人間の創造。

創世記 1:26-28  神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 神は彼らを祝福された

{神が、我々と 複数形で記載されている大事な聖書箇所です。故に三位一体が語られ理解されています。神の導き 助けにも 三身の違いからの微妙な違いも在るような・・?気がします。}

私たちは神の形に似せられて 創られた存在です。
神に愛される存在です。
神と同じような考え方 気質 性格も どこか似ているのです。

驚きです。感謝です。 未だ未だ聖書を読み込むならば日々新しい発見と感動、教えが一杯 聖霊の助けによって理解と導きがあります。 けれど聖書を調べ,読み下げることも大事です。
直感的に理解することもありますが、確証するためには,他の聖書箇所も調べて照合してより確実になります。


さて、神は7日間で世界を創られたと記載されています。

神の一日は、人の千年にも及ぶとも書かれています。

私たちは、神の手が動いて,私たちの生活の中。一寸先は闇とも言われる人生の中で 着実に備えて下さる神キリスト 聖霊様 父なる神に讃美を献げましょう。

神は夕暮れから始められたように、暗闇を乗り越えて,朝を迎えられたように。私たちの人生の病む、問題を解決し,輝く朝をも変えられるように、父なる神は整えて下さいます。

夜の明けね,朝はないのです。

キリストに在って救いを得て,人生の朝を私たちは迎えることが出来るのです。 原動力、それは,キリストを信じ切る。待つ。希望です。 此処にも愛と希望と信仰が生かされます。 実生活の中で適応して生きましょう。