2014年3月5日水曜日

@ NO2 旧約聖書 覚え書き

アダムとエバはエデンの園に住み、その園の管理者としての使命を、神から与えられました

 私たちには、神によって生かされていますが、生きる目的、使命があるのです。この使命が何であるかを見つけて生きるなら、素晴らしい人生を送ることが出来ます。

 人は神との交わり会話する立場でした。神はアダムが食べ物として。色々の木の実を生えさせてあたえられました。 最初から肉食がなかったようです。菜食ですね。 人間はそのほうが健康な生活がおくれるようです。

 そのエデンには神様との契約、自由がありました。 その自由と服従の象徴として命の木の実と知恵の木の実を作られました。

 神に同じように造られた大天使ルシファーがいました。彼は蛇に姿を変えて忍び込みエバを誘惑しました。 彼らに与えられていた特権、この世を支配する権利を妬んだと思われます。この大天使ルシファーがのちになってサタン、悪魔と呼ばれるようになりました。

サタンの誘惑方法を知りましょう。

蛇は女に言った。『あなた方は、園のどんな木からも食べてはならないと、神は、本当に言われたのですか。』 女(エバ)は蛇に言った。『私たちは園にある木の実を食べても良いのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなた方は食べてはならない。それに触れてもいけない。それを食べてはならない。あなた方は死ぬといけないからだ。』と仰せにになりました。 

そこで蛇は女に言った。『あなた方は決して死ぬことはありません。あなたがたがそれを食べるとき、あなたがたは目が開け、あなた方は神のようになり、善悪を知るようになるのです。』 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのには良く、目に麗しく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実をとって食べ。いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
 創世記 3:1~6

 誘惑に陥るときには、今まで知らなかった在る情報がもたらせられます。全体的には肯定しつつも一部に対して疑いを持たせられます。 木の実は普段手にして食べているものでした。

園の中央、それは心の中心であったことも意味します。気になっていたのです。しかし、その実は自由意思の証でした。神の性質には自由があったのです。神の性質を人間は引き継いでいたのです。 サタンはその点に疑いをかけました。 「神のようになるよ」と関心を増させて疑いを与えたのです。 疑いがましたことを確認したサタンは、次のように言いました。神の言葉を変えさせたのです。「死にませんよ。」と言い切りました。 原語上は小さな変化です。

同じ死ぬと言う単語に小さな否定単語を付け加えるだけです。

今まで関心を持ってみたことがない木も実が麗しくみえてきたのです。 そのみを食べるときには彼女一人ではなく夫にも与えて食べさせて、 同じ罪を背負わせたのです。

アダムもその木も実が何であるか、当然知っていましたが、妻が食べた死ななかったので、自分も食べてしまいました。

神に従わないこと、、神が望まないことをする事が、罪と言われるのです。アダムとエバが、神が望んでいなかったこと。創造の父なる神の目から見て、的外れなことしてしまいました。それらが原罪として、人間に性質として、加えられてしまいました。 神に似て造られたはずでしたが、最初にはなかった罪の性質が加えられてしまいました。

これくらいなら良いだろ・・この程度なら問題がないだろう・・ から深みにはまり、罪を犯してしまいました。


3つの呪いと救いの契約 その風の吹く頃。彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人と彼の妻は、主である神の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 創世記3:8

 蛇の姿に変えたサタンの、甘い誘惑に負けたアダムとエバは、神のほうから、彼ら二人を捜しておられることに気がつきました。でも自由という契約の証であった、(食べてはいけないと守るか、守らないか!彼らに与えた神の本質である自由。その彼らに分与した自由意思を尊重なさったのは、神である主でした。)木の実を食べてしまった、彼らは、まともに、神の姿を見られなくなりました。

 神の姿を見たDNAは今も受け継いではいます。 人間だけが祈りをするのです。また霊的な力を恐れるのです。

 それでも彼らを捜したのは、神様ご自身でした。 彼らの言い訳は、アダムと妻であるエバとが互いになすり合う言葉使って責任を逃れようとしました。また、裸であることに気がついた、彼らの姿を見て、悲しまれました。 神は私たちを愛していそしまれるお方です。

 一旦、神が定めた事を覆すことが出来ないからです。 神は義の神です。正しいこと契約は守られる方です。

 三人に宣告なさいました。 

 サタンには怒りを発せられ、あらゆる生き物の中で嫌われ、一生腹ばいで歩き、チリを食べるようになると言われました。蛇とエバとの間に敵意がおかれて、女の子孫が、エビの頭を砕くと言われました。

 エバには、産みの苦しみを与えられました。夫に仕えるようになるとも言われました。彼女から生まれる者が、エビの頭を砕くと言われました。 そうです。彼女の子孫の42代目が、イエス・キリストとなりました。

 アダムには一緒苦しんで地を耕して、苦しみ労働することと、死んでチリに帰ることとを告げられました。 永遠に生きる神の姿から、死が与えられました。エデンの園には住めなくなりました。神が歩かれる清い場所には、居られなくなったからです。

                 
 彼らが 園を追い出されるときに、初めて一匹の獣が犠牲になって、血を流しました。 

 神である主はアダムとその妻のために革の衣を作り、彼らに着せて下さった。創世記3:21

 獣の血。つまりその死が、彼らが死ぬと言われていた事の代わりになりました。 正義ある神が一旦、神ご自身で決められたことを、神は自ら変更することが出来ませんでした。

しかしながら、取り消す代わりに新しい契約で、消して合わせられたのです。

 一旦、壁に書いた文字を消せません。でも新しいペンキを塗れば、先に書いた字を消さなくても、痕跡は残りますが、見えなくなります。新しい契約は、消しゴムみたいですね。

 血を流した獣がどのような獣であったかは、この箇所には書いてはありません。けれど汚れのない羊が神様への犠牲として、後の世になってから、定めらっる事から、羊ではなかったかと思われます。またキリストを神の子羊とも呼ばれるようにも成りました。

 まさに、蛇に語ったように、サタンのかかとに噛み付くと言われたように、十字架の死を思わせます。また頭を砕くと言われたように、キリストの死は、私たち人間に、サタンからもたらせられた呪いを、永遠の

死からの開放の予票でした。

 その後神はエデンに置かれた命の木と、線悪の知識の木を ケルビム=神の臨在を示す象徴と共に、エデンの園を封印なさいました。

 しかし、神が、私たちを永遠に愛しておられることには変わりなく、天国とも言われるエデンの園に帰ることも望んでおられます。 そのチャンスが与えられています。

それらは、私たちが天に帰る決心決意から始めるのです。


神への捧げ物 神への捧げ物を決める。創世記4章から

 エデンその園を追放された後に、アダムとエバには2人の子供が生まれました。兄カインと弟アベルです。アダムは人という意味、エバは命=という意味で、カインは私は産み得ると意味があり、息=吐く息の蒸気の意味が、それぞれにありました。 

アダムはエデンの土で、神の形に似せて作られました。エバはアダムの骨を元に造られました。その子供たちは、両親の二人の身体を元にして、エバの胎の中で造られました。神の秩序によって、これらの創造は進みました。

  大人になって、二人の子供は捧げ物を、神の前に持ってきました。エデンではアダムたちは直接、神に合う事が出来ました。子供たちも未だ、神に出う事が出来ました。兄のカインは、土を耕す者をなりました。アダムに与えられた呪いも引き継ぎ、額に汗して土を耕していたのでしょう。弟アベルは羊を飼う者となっていました。




 農作物を捧げた兄カインの捧げ物よりも、神は、弟の捧げた羊を目に留められて、神は喜ばれたのです。何故なのかを考えましょう。

 捧げ物は、その人の人生や人格を捧げる物だと思います。アベルは沢山いたと思われる羊の中から、汚れや汚れ等がない羊を、自ら選んで、捧げました。 彼らの捧げものをする、心の中や態度を見抜かれたと思います。

わたしたちは形式や余り物を捧げてはいけないと思います。一番尊ばれるのは、その心です。態度です。

 私が神学生の頃。学生寮には入りきらない、ベッド持っていましたので、あるキリストの姉妹(キリストの流された血によってつながる姉妹)に預けました。私が伝道旅行に出かけなくてはいけない時期に、その姉妹がベットを買い取ると申し出て下さいました。 

 マットレスには、私がこぼしたコーヒーのシミがついていました。リサイクルセンターで買えば、非常に安く成る物です。その姉妹は汚れたベッドを10万円で買い取ってくださいました。その金額で、伝道旅行に行けるようになり、12名が救われました。 
その品の価値よりも、姉妹の心が、ベッドの浸み汚れよりも、神に向かって捧げられたと思います。

 兄カインの捧げた農作物が、どのような状態であったか?詳細は、聖書は書いてはいません。
私達は、しおれた野菜は嬉しくないです。泥が沢山ついた農作物も嬉しくはないです。弟アベルの羊は貴重な初子であり、最良の羊であったと、聖書はわざわざ記録を残しています。彼は羊に彼自身の真心を乗せて捧げたと思います。

捧げ物の中には、人生、生き方を捧げることがあります。単に宗教的になって献身をするのか?神様からその生き方を望まれて笹替えう人生、献身なのかを吟味しなくては祝福、幸せに離れません。 単なる積極思考とは違います。 時には試練があり、辛い人生の一時、時期を過ごすこともあります。 信仰が試されます。 信仰が試され、訓練させられる時期もあります。兄は試されたのかも知れません。

 カインは、神に顧みられなかったことで、怒りを発します。主は『何故?あなたは憤っているのか?何故、顔を隠ししているのか?』と質問し、『その怒りを自分で収めるべきだ!』と彼を諭しておられます。創世記4:6~7

 神は試練を、テストを与えられますね。同じ問題が来ます。上手く乗り切り回答するまで、あなたの人生に同じようなテストが来ます。

 神への不満が怒りに変わったカインです。結果。逆恨みと言いましょう。弟を殺してしまいます。人類最初の殺人は肉親殺しでした。悲しいですね。 

 キリストは十字架に架かって、死を迎えるときに、罪のないキリストを十字架に付けた人々を『天の父よ!彼らを許してください。何をしているのかが解らないのです。』と言われました。永遠の裁きをなさる神に対しても、弁護して許しを与えられたキリストです。

 カインは弟の流した血の責任。呪いを受ける結果となりました。定着出来ずさうらう人生を過ごす結果となりました。それでも、神はカインを哀れみ、直ぐに殺すことはなかったのです。

 神の哀れみが耐えられて、彼の身体の一部に何か見えるような印を付けました。神の意志で、彼は亡くなるまでの時の前に、誰かが彼カインを殺さないようにするためでした。 人は自分で、自分で命を絶つ権利は、本来持たないのです。自殺する方もいます。けれど、生きていれば必ず幸せが来ます。

心豊かな幸せ、永遠を持つ幸せが必ず来ます。神が人生をコント・ロールなさるからです。過ちや失敗も、神によって益となるように、仕向けられます。 もちろん選択し結果を出すことは、私たち人間の責任です。カインはエデンの東のノデの地(さすらいの意味がある。)に住み着きました。

 アダムは子供を生んで、子供達が地上に広がり始めました。 このことも神の計画と祝福の中に在ることです。

 これらの祝福につながることも、あなたの幸せになることなのです。 

 神の祝福を手にしましょう
 
  家系の祝福

カインは、その妬みから弟アベルを殺してしまいました。

神は彼が自殺したり、殺したりを許されませんでした。

カインは結婚して、子供が生まれてきます。 詳細は書かれてはいませんが、神が彼に妻を与えられました。そして子供達、孫達が生まれてきます。彼らは自由に、家畜を飼い、また楽器を巧みに奏でる者となりました。 創世記4章 カインの気質を受け継いでいたようで、荒々しい気質でした。

神はアダムとエバとの間に、新しいこともを与えられました。セツと言う名前です。その子供がエノシュ その意味は神を求める。 その時代から、創世記の人々は神を求めて礼拝を始めました。その後も、子供、子孫が生まれます。

カインの子孫は聖書の歴史からは記録が消えてゆきます。彼から引き継いだ罪の性質が、神から遠ざけられました。 

セツの子孫から生まれたエノクは神と共に歩み、愛されました。 

何故か?神様のお気に入りとなったようです。神は彼を特別な取り扱いをなさいました。 私たちも、神からは特別な取り扱いを受けるチャンスはあります。 

神に対して誠実に、忠実に仕えたいですね。 それが私たちに特別な意味で霊的な祝福、実際生活での豊かさをもたらします。


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