2014年3月22日土曜日

@ No3 創12:1 主はアブラムに仰せられた。

この言葉の重みと、とりなしの言葉と祝福の言葉。

創12:1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

   創世記の一つの中心的な物語。神からのメッセージの幕がこの12章から始まります。一人の男が、神の目にとまり、呼び出され召しを受けるまでのロングストーリーの幕開けです。

           


彼アブラハムの経験する、またその行動に隠されている神様との契約、神の愛の姿と形と教え等をが学び取れることが多く隠されているアブラハムの生涯です。彼の経験を、それぞれの生活に適用していくならば、大きな神の恵みと力を得るようになると確信します。

アナザ・ストーリー アブラハムの信仰に望みを!

私が始めてこの御言葉を、身をもって知った出来事。
17歳の<昭和30年代>時でした。とても思いやりの愛に溢れたカナダ人のスレーニー宣教師からでした。(私はキリストの救いを受けて救われたのは14歳でした。)

スレーニー宣教師は、冒頭の御言葉  創世記12章1節の言葉から、日本に宣教に行く決心をなさったと話されました。その話しをなさった後、私に語りかけてきました。

「あなたも将来。両親を離れ遠い外国に行きキリストの話をするようになる気がするよ。
貴方のために、とりなしの祈りをしていると、神様からの分からない特別な思いが、私の心に湧いてきましたから・・。」と話されました。
        


17歳だった私にはとてつもなく想像が付きませんでした。将来は結婚したら、両親と一緒に住みたいし・・外国?言葉も話せないし?  今はコックの見習いをしているし。将来の夢はレストランを持つことだから・・スレニー宣教師の言葉は、当時の私自身にはピ~ンとは来ませんでした。

  宣教師は「私は貴方のために、ズーと祈りますよ。貴方のこの言葉を心に留めて将来を祈って見ては如何でしょうか?」語って下さいました。それから2~3年後、仕事の都合で、その教会を離れて別な町の教会に・・
  時折は、その宣教師の自宅には遊びに行き交わり、交流をしていました。
カナダの教会からの遣わされていた任期が終えられ帰国なさいました。それから、20年後、未だお若いときでしたが、急病で亡くなられたことが残念です。

 私はその後、コック料理の修業のために幾つかの職場を変わり、また結婚。結婚生活が10年あまり、妻の病死で終わりました。傷心の心癒やすために、パリに行き、現地採用で、日本商社マンの独身寮の賄い作りをしました。その仕事ぶりが認められた? イラクに派遣されました。 コプト教のクリスチャンと交流と仕事も一緒にしました。イスラムの人達とも仕事を通じて仲良くなりました。親しくなると、キリストの話しも出来るようになりました。  アラーの神は、エホバでもありアブラハムの神だからと、私の証 キリストのを良く聞いてくれました。
イスマエルの神と同じだからと・・

私自身は、失いかけていた信仰を、イラクのメソポタミア砂漠で神に出会い、信仰を取り戻しました。砂漠に立ち上がる火の柱など聖書の世界の不思議をこの目で見ること以外に、肉声のように感じた、神からの言葉を聞くことも出来ました。火の柱が立ち上った砂漠に興味から見に行き、強い臨在というか不思議な人の気配(イラクの砂漠の午後9時頃、人は普通は居ないのですが) 気を失っていた中ですが・・。

     
           画像は私自身の30歳代
聖書に書いて有った下記の言葉を下記の、気を失うようなおぼろげ中で聞きました。 イザヤ59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

神に対しての何故ですかが?神様に抱いていた疑問が吹き飛びました。イラクからフランス・アルジェリア カナダと転々としました。12年間でした。 父の死に目にも会えませんでした。
母がアルツハイマー記憶喪失になりました。癒やしを求めて4年近く、神の恵みで回復するという奇跡も体験。徐々に献身へと導かれていきました。

神学校を卒業してからは、海外宣教にも機会を与えられました。  ルーマニアからの帰国中継地点のハンガリーの駅の階段で、明日が日曜日だけれど、礼拝する場所が分からないと祈っていたら、あるハンガリー人夫人に声をかけられました。私が頭を垂れて祈る姿に気持ちが動いたそうです。ホームレスが途方に暮れているように見えたとも・・夫人は気になって声をかけて頂きました。
理由を伝えると。自宅に招き食事を提供してくださり。私の紹介する教会にに行きましょうと語って下さいました。 
午前中には婦人の所属教会で証をして、午後の教会では1000名近い会衆につたない英語で福音と癒やし、救いの関係をメッセージすることが出来ました。癒やしを宣言すると、心臓に問題があった人が癒やされたと報告を受けマッシュた。

終わった後、ふと前記のカナダ人宣教師の言葉と、とりなしの祈りを思い起こしたのでした。
祈って下さった宣教師は既に亡くなっておられましたが・・実現したと思いました。17歳の時に語られたさりげない言葉が、35年後に実現しました。

愛を持って長く長く時間をかけてのとりなしの祈りは実現すると・・おもいました。さりげなく愛ある長期間のとりなしが重要です。教会はとりなし合う、祈り合う人々の集まる所です。

 特定の方へのとりなしの力・祈りには 、神とその人・個人の間に入っ履、短期中期 長期にわたってとりなして励まして、注意や警告して下さり方が本物の預言者、とりなし手だと思います。

 集会で次々と預言する、預言者もおられます。その場だけで「預言します。」と言うのではなく、長い時間のとりなしが不可欠だと思います。   集会で特別予言を受けたとしても、実現するか しないか 吟味が絶対不可欠。

預言されて事に対して、とりなしの祈り手を依頼することも大切。預言集会で預言されることの中に、貴方が一度も祈った事の無い預言があった場合は切り離してもよいと思います。しかし、後になって実現する可能性も含まれる場合もあります。新しいことを言われた場合は、継続して吟味の祈りをしても良いと思います。
いずれにしても、貴方の祈りと賜物が預言実現には有効作用。加味してきます。一片のタレントや夢・使命感が無い事を預言された場合は、その預言を疑っても良いと思います。

偽預言にはご注意を!!
よくよく預言には注意と祈りと、預言の達成には、あなたの隣人かた、とりなしの祈りを依頼することです。 預言の基本は神の愛と祈りです。
事前に『あなたはどの様な事を祈りたい?予言が受けたいのですか?」と聞いてから聞いた預言をするには注意してください。それは預言と言うよりは占いに相当します。

 神からの啓示 使命 愛を受けたら、前向きに吟味しつつ、第一歩を踏み出すことです。アブラハムのように・・。
神キリストからの多くの祝福があなたにありますように。

2014年3月5日水曜日

@ NO2 旧約聖書 覚え書き

アダムとエバはエデンの園に住み、その園の管理者としての使命を、神から与えられました

 私たちには、神によって生かされていますが、生きる目的、使命があるのです。この使命が何であるかを見つけて生きるなら、素晴らしい人生を送ることが出来ます。

 人は神との交わり会話する立場でした。神はアダムが食べ物として。色々の木の実を生えさせてあたえられました。 最初から肉食がなかったようです。菜食ですね。 人間はそのほうが健康な生活がおくれるようです。

 そのエデンには神様との契約、自由がありました。 その自由と服従の象徴として命の木の実と知恵の木の実を作られました。

 神に同じように造られた大天使ルシファーがいました。彼は蛇に姿を変えて忍び込みエバを誘惑しました。 彼らに与えられていた特権、この世を支配する権利を妬んだと思われます。この大天使ルシファーがのちになってサタン、悪魔と呼ばれるようになりました。

サタンの誘惑方法を知りましょう。

蛇は女に言った。『あなた方は、園のどんな木からも食べてはならないと、神は、本当に言われたのですか。』 女(エバ)は蛇に言った。『私たちは園にある木の実を食べても良いのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなた方は食べてはならない。それに触れてもいけない。それを食べてはならない。あなた方は死ぬといけないからだ。』と仰せにになりました。 

そこで蛇は女に言った。『あなた方は決して死ぬことはありません。あなたがたがそれを食べるとき、あなたがたは目が開け、あなた方は神のようになり、善悪を知るようになるのです。』 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのには良く、目に麗しく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実をとって食べ。いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
 創世記 3:1~6

 誘惑に陥るときには、今まで知らなかった在る情報がもたらせられます。全体的には肯定しつつも一部に対して疑いを持たせられます。 木の実は普段手にして食べているものでした。

園の中央、それは心の中心であったことも意味します。気になっていたのです。しかし、その実は自由意思の証でした。神の性質には自由があったのです。神の性質を人間は引き継いでいたのです。 サタンはその点に疑いをかけました。 「神のようになるよ」と関心を増させて疑いを与えたのです。 疑いがましたことを確認したサタンは、次のように言いました。神の言葉を変えさせたのです。「死にませんよ。」と言い切りました。 原語上は小さな変化です。

同じ死ぬと言う単語に小さな否定単語を付け加えるだけです。

今まで関心を持ってみたことがない木も実が麗しくみえてきたのです。 そのみを食べるときには彼女一人ではなく夫にも与えて食べさせて、 同じ罪を背負わせたのです。

アダムもその木も実が何であるか、当然知っていましたが、妻が食べた死ななかったので、自分も食べてしまいました。

神に従わないこと、、神が望まないことをする事が、罪と言われるのです。アダムとエバが、神が望んでいなかったこと。創造の父なる神の目から見て、的外れなことしてしまいました。それらが原罪として、人間に性質として、加えられてしまいました。 神に似て造られたはずでしたが、最初にはなかった罪の性質が加えられてしまいました。

これくらいなら良いだろ・・この程度なら問題がないだろう・・ から深みにはまり、罪を犯してしまいました。


3つの呪いと救いの契約 その風の吹く頃。彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人と彼の妻は、主である神の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 創世記3:8

 蛇の姿に変えたサタンの、甘い誘惑に負けたアダムとエバは、神のほうから、彼ら二人を捜しておられることに気がつきました。でも自由という契約の証であった、(食べてはいけないと守るか、守らないか!彼らに与えた神の本質である自由。その彼らに分与した自由意思を尊重なさったのは、神である主でした。)木の実を食べてしまった、彼らは、まともに、神の姿を見られなくなりました。

 神の姿を見たDNAは今も受け継いではいます。 人間だけが祈りをするのです。また霊的な力を恐れるのです。

 それでも彼らを捜したのは、神様ご自身でした。 彼らの言い訳は、アダムと妻であるエバとが互いになすり合う言葉使って責任を逃れようとしました。また、裸であることに気がついた、彼らの姿を見て、悲しまれました。 神は私たちを愛していそしまれるお方です。

 一旦、神が定めた事を覆すことが出来ないからです。 神は義の神です。正しいこと契約は守られる方です。

 三人に宣告なさいました。 

 サタンには怒りを発せられ、あらゆる生き物の中で嫌われ、一生腹ばいで歩き、チリを食べるようになると言われました。蛇とエバとの間に敵意がおかれて、女の子孫が、エビの頭を砕くと言われました。

 エバには、産みの苦しみを与えられました。夫に仕えるようになるとも言われました。彼女から生まれる者が、エビの頭を砕くと言われました。 そうです。彼女の子孫の42代目が、イエス・キリストとなりました。

 アダムには一緒苦しんで地を耕して、苦しみ労働することと、死んでチリに帰ることとを告げられました。 永遠に生きる神の姿から、死が与えられました。エデンの園には住めなくなりました。神が歩かれる清い場所には、居られなくなったからです。

                 
 彼らが 園を追い出されるときに、初めて一匹の獣が犠牲になって、血を流しました。 

 神である主はアダムとその妻のために革の衣を作り、彼らに着せて下さった。創世記3:21

 獣の血。つまりその死が、彼らが死ぬと言われていた事の代わりになりました。 正義ある神が一旦、神ご自身で決められたことを、神は自ら変更することが出来ませんでした。

しかしながら、取り消す代わりに新しい契約で、消して合わせられたのです。

 一旦、壁に書いた文字を消せません。でも新しいペンキを塗れば、先に書いた字を消さなくても、痕跡は残りますが、見えなくなります。新しい契約は、消しゴムみたいですね。

 血を流した獣がどのような獣であったかは、この箇所には書いてはありません。けれど汚れのない羊が神様への犠牲として、後の世になってから、定めらっる事から、羊ではなかったかと思われます。またキリストを神の子羊とも呼ばれるようにも成りました。

 まさに、蛇に語ったように、サタンのかかとに噛み付くと言われたように、十字架の死を思わせます。また頭を砕くと言われたように、キリストの死は、私たち人間に、サタンからもたらせられた呪いを、永遠の

死からの開放の予票でした。

 その後神はエデンに置かれた命の木と、線悪の知識の木を ケルビム=神の臨在を示す象徴と共に、エデンの園を封印なさいました。

 しかし、神が、私たちを永遠に愛しておられることには変わりなく、天国とも言われるエデンの園に帰ることも望んでおられます。 そのチャンスが与えられています。

それらは、私たちが天に帰る決心決意から始めるのです。


神への捧げ物 神への捧げ物を決める。創世記4章から

 エデンその園を追放された後に、アダムとエバには2人の子供が生まれました。兄カインと弟アベルです。アダムは人という意味、エバは命=という意味で、カインは私は産み得ると意味があり、息=吐く息の蒸気の意味が、それぞれにありました。 

アダムはエデンの土で、神の形に似せて作られました。エバはアダムの骨を元に造られました。その子供たちは、両親の二人の身体を元にして、エバの胎の中で造られました。神の秩序によって、これらの創造は進みました。

  大人になって、二人の子供は捧げ物を、神の前に持ってきました。エデンではアダムたちは直接、神に合う事が出来ました。子供たちも未だ、神に出う事が出来ました。兄のカインは、土を耕す者をなりました。アダムに与えられた呪いも引き継ぎ、額に汗して土を耕していたのでしょう。弟アベルは羊を飼う者となっていました。




 農作物を捧げた兄カインの捧げ物よりも、神は、弟の捧げた羊を目に留められて、神は喜ばれたのです。何故なのかを考えましょう。

 捧げ物は、その人の人生や人格を捧げる物だと思います。アベルは沢山いたと思われる羊の中から、汚れや汚れ等がない羊を、自ら選んで、捧げました。 彼らの捧げものをする、心の中や態度を見抜かれたと思います。

わたしたちは形式や余り物を捧げてはいけないと思います。一番尊ばれるのは、その心です。態度です。

 私が神学生の頃。学生寮には入りきらない、ベッド持っていましたので、あるキリストの姉妹(キリストの流された血によってつながる姉妹)に預けました。私が伝道旅行に出かけなくてはいけない時期に、その姉妹がベットを買い取ると申し出て下さいました。 

 マットレスには、私がこぼしたコーヒーのシミがついていました。リサイクルセンターで買えば、非常に安く成る物です。その姉妹は汚れたベッドを10万円で買い取ってくださいました。その金額で、伝道旅行に行けるようになり、12名が救われました。 
その品の価値よりも、姉妹の心が、ベッドの浸み汚れよりも、神に向かって捧げられたと思います。

 兄カインの捧げた農作物が、どのような状態であったか?詳細は、聖書は書いてはいません。
私達は、しおれた野菜は嬉しくないです。泥が沢山ついた農作物も嬉しくはないです。弟アベルの羊は貴重な初子であり、最良の羊であったと、聖書はわざわざ記録を残しています。彼は羊に彼自身の真心を乗せて捧げたと思います。

捧げ物の中には、人生、生き方を捧げることがあります。単に宗教的になって献身をするのか?神様からその生き方を望まれて笹替えう人生、献身なのかを吟味しなくては祝福、幸せに離れません。 単なる積極思考とは違います。 時には試練があり、辛い人生の一時、時期を過ごすこともあります。 信仰が試されます。 信仰が試され、訓練させられる時期もあります。兄は試されたのかも知れません。

 カインは、神に顧みられなかったことで、怒りを発します。主は『何故?あなたは憤っているのか?何故、顔を隠ししているのか?』と質問し、『その怒りを自分で収めるべきだ!』と彼を諭しておられます。創世記4:6~7

 神は試練を、テストを与えられますね。同じ問題が来ます。上手く乗り切り回答するまで、あなたの人生に同じようなテストが来ます。

 神への不満が怒りに変わったカインです。結果。逆恨みと言いましょう。弟を殺してしまいます。人類最初の殺人は肉親殺しでした。悲しいですね。 

 キリストは十字架に架かって、死を迎えるときに、罪のないキリストを十字架に付けた人々を『天の父よ!彼らを許してください。何をしているのかが解らないのです。』と言われました。永遠の裁きをなさる神に対しても、弁護して許しを与えられたキリストです。

 カインは弟の流した血の責任。呪いを受ける結果となりました。定着出来ずさうらう人生を過ごす結果となりました。それでも、神はカインを哀れみ、直ぐに殺すことはなかったのです。

 神の哀れみが耐えられて、彼の身体の一部に何か見えるような印を付けました。神の意志で、彼は亡くなるまでの時の前に、誰かが彼カインを殺さないようにするためでした。 人は自分で、自分で命を絶つ権利は、本来持たないのです。自殺する方もいます。けれど、生きていれば必ず幸せが来ます。

心豊かな幸せ、永遠を持つ幸せが必ず来ます。神が人生をコント・ロールなさるからです。過ちや失敗も、神によって益となるように、仕向けられます。 もちろん選択し結果を出すことは、私たち人間の責任です。カインはエデンの東のノデの地(さすらいの意味がある。)に住み着きました。

 アダムは子供を生んで、子供達が地上に広がり始めました。 このことも神の計画と祝福の中に在ることです。

 これらの祝福につながることも、あなたの幸せになることなのです。 

 神の祝福を手にしましょう
 
  家系の祝福

カインは、その妬みから弟アベルを殺してしまいました。

神は彼が自殺したり、殺したりを許されませんでした。

カインは結婚して、子供が生まれてきます。 詳細は書かれてはいませんが、神が彼に妻を与えられました。そして子供達、孫達が生まれてきます。彼らは自由に、家畜を飼い、また楽器を巧みに奏でる者となりました。 創世記4章 カインの気質を受け継いでいたようで、荒々しい気質でした。

神はアダムとエバとの間に、新しいこともを与えられました。セツと言う名前です。その子供がエノシュ その意味は神を求める。 その時代から、創世記の人々は神を求めて礼拝を始めました。その後も、子供、子孫が生まれます。

カインの子孫は聖書の歴史からは記録が消えてゆきます。彼から引き継いだ罪の性質が、神から遠ざけられました。 

セツの子孫から生まれたエノクは神と共に歩み、愛されました。 

何故か?神様のお気に入りとなったようです。神は彼を特別な取り扱いをなさいました。 私たちも、神からは特別な取り扱いを受けるチャンスはあります。 

神に対して誠実に、忠実に仕えたいですね。 それが私たちに特別な意味で霊的な祝福、実際生活での豊かさをもたらします。


@  NO1 創世記の覚え書き。

今まで各1章ずつ書いて、バベルの塔の記録まで来ました。

もう一度。繰り返してポイントを繰り返してみました。

生きる目的、生き甲斐を持とう。

 初めに神は天と地を創造した。 聖書 創世記1章1節

神はこのように、人をご自分の形に創造された。神の形に男と女を彼らを創造された。

神はまた、彼らを祝福し、このように仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。・・全ての生き物を支配せよ。』 創世記1:27~28

 神は7日間で天地を創られて、人を神の形に似せて作られました。

またエデンの園を設けて、人に住まいを与え、食べ物も豊かに与えられました。

 人は創造の神の守りの中で、安息に生活が出来ます。また神様と交わり会話楽しむ存在でした。 人には必ず、安息できる場所があります。 また神から託された生き方と同時に目的があります。 現代になっても、その事には代わりはありません。 エデンの園は、現代からは見せなくなりました。しかし、神は同じように、私たちに対して願っておられます。

人々は必ず、安息する場所が必要ですし、人生を豊かに生きる目的が必要です。必ずしも経済的に恵まれることばかりが、豊かな人生というのではありません。生き生きとした人生を生きるためには、神との交流は必要です。また人生の目的、使命を持つことが大切です。高齢になっても、同じです。 比較的に、日本人は高齢になると、自分が死を迎える事だけを考え始めますが、本来は高齢であっても、『私は神によって生かされている。』という考え方を持つなら、死を待つだけの人生ではなく、生き生きとした生活と幸せを掴むことが出来ます。

 若い方なら、自分自身の好きな仕事や家庭のために、また隣人のために、生きる目的も見いだしやすいです。生き甲斐を見いだすことは、日々の積み重ねです。近代の日本の労働条件は乱れてきています。しかしながら、ハッキリとした目的を持って取り組むなら、困難は乗り切れます。時にはその困難に打ち死枯れそうにも成りますが、あなたが真剣に立ち向かい取り組みなら、それらを見ている隣人が助けを・・知恵を授けてくれます。その背後には、神はあなたを支え守っておられます。

神は自由を私たちに与えてくださいました。その自由な中から、神が喜ぶ、また隣人が喜ぶ、自分も満足、平安を得られる人生の目的を持ちましょう。

神は私たちがこの世において、エデンの園のように過ごすこと、神との交流を望んでおられます。 そのことを望む人々には、今まで知らなかった道、人生の目的を発見できます。あなた様の幸せのステップが益々豊かに成りますように。

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 神の形に似せて創られた。

神はこのように、人をご自身の形に創造された。創世記1;27

私たち人間は、神に愛される存在として創造されました。 何の意味もなく存在を許されているのではありません。 生きてるだけでも、神の目から尊くて存在価値があるのです。

病気から植物人間と言われる方もおられるでしょうけれど、確かに看病することは大変ですし、安楽死を望む方もおられるでしょう。 安楽死で楽になるのは残された家族ですが、亡くなった後の悲しみはもっと苦しいです。

今から30年前の事です。私の妻が癌になって死の宣告を受けた時期があります。それも生きているからこそ、望みがありました。!! 生きている事に価値がありました。私に取っては生きている限り愛する事の目的でした。

神はアダムとエバをエデンの園を守るように命じられました。エデンの園には一つの川が湧き出て通ってエデンの園を潤していました。 その川は4つに別れ出ていました。

一つの川の名前はピション=成長という意味。 ハラビ=希望という台地を潤していました。 

第二の川はギフォン=溢れ打ち破ると言う意味。クシュ=祝福という台地を潤して流れていました。

第3の川はヒデクル=代々という意味。 アシュルの東を流れていました。

第四の川はユーフラテス-増し加えられると言う意味

エデンは喜びと言う意味です。 神は私たちに素晴らしい生きてゆくための環境を与えられるのです。 今、あなたには不満があるかも知れません、しかし、神を求めて、あなたの与えられているエデンを守り耕すなら幸せは必ず来ます。だたし、神との契約を守らないといけません。 食べてはいけない実のみがあったように。それは自由と服従いう名の契約の中です。


  神は、肥沃な川の流れの塵<チリ>から人を創られた。

『神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻に息を吹き込まれた。そこで、人は生き物になった。』聖書 創世記2:7

 このようにして最初の人アダムは神様の手によって、神様の形に似せて造られました。

日本、ギリシャの神話などでは、神と人の血縁関係を伝える場合が多いです。聖書の人間観は、神によって造られ、血縁関係はないのです。しかし、神の息(霊)を吹き込まれたことによって、神に等しい霊的なの存在となりました。 それは人間以外にはなく、他のの動物とは一線を別け隔てています。ここに人間の尊厳性と微弱性が在ります。

神によって造られた多数の動物とは違い、神の霊を吹き込まれた者として、寵愛を受ける存在なのです。

一人でいたアダムに助けてとして、彼を深い眠りに落とし入れた神は、彼のあばら骨から女、エバ<血肉という意味>を造られました。 

前記の豊かな川の中に有ったチリ、鉱物ミネラル成分が、私たちの身体の元になっています。アダム以外の人間は、その母の胎の中で、まるで土を練る上げるようにして形が造られて生まれます。 『男はその父母を離れ、妻と結び会い、二人は一体となり・・』創世記2:24 神は結婚することを、子供を作る事を願われ祝福されました。

人間はその存在そのものが、神から見て尊い存在なのです。

 神は一人のように思われがちですが、聖書では3つの人格をひつとの神としています。

創世記1:26には 我々に似るように人を造ろうと語ったと書かれています。 聖書の神の概念です。

創造の父なる神、子供成る人格の神、キリスト。そして聖霊成る人格の神、それは私たちの助けてとしての神様、聖書では追求してはいませんが、私個人的には、どうしても母のような存在助け手をどうしても創造してしまいます。聖書で神の呼び名は、原語古代へブル語ではいくつかの呼び名があります。絶対口に出来ない神聖な呼び名でした。 そのために、なじみやすい別名で表現をしたこともあり、一人称や三人称で聖書に記されました。

聖書はモーゼがシナイの山で、神エホバに遭遇したときに、この創世記を記しました。聖霊の助けによってのちに、聖書は66巻に纏められました。 世代や時代を超えても目的は一つで、、私たちの救いとキリストの栄光です。 聖書に記されて、消えていた歴史、遺跡なども、あり得ないと思われても、考古学発掘が進んでいくと、実際に発見されたという事実が、聖書の正しさを知る事が出来ます。