2014年1月28日火曜日

父なる神の愛の物語 ミカエル小栗: @ ノアの決断

父なる神の愛の物語 ミカエル小栗: @ ノアの決断: 創世記 7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。 神がこの世を・・エデンを作られた時には、アダムとの共存を僕や奴隷としてでは無く、自由人として心に決めておられました。 折角。与えられていた自由をアダムは、サタンの誘惑のために使いました。 その後、サタ...

@ ノアの決断

創世記 7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。

神がこの世を・・エデンを作られた時には、アダムとの共存を僕や奴隷としてでは無く、自由人として心に決めておられました。
折角。与えられていた自由をアダムは、サタンの誘惑のために使いました。

その後、サタン・悪霊達は人々の心に足がかりを持てる権利を得てしまいました。
結果、最初に,神様が計画していた人とは違い,悪ばかりを繰り返すように成り、神は一端リセットなさろうとしました。

その中で独りだけ。ノアを見いだされてました。
当時の悪い世代の中で,ノアも悪い物を見聞きしていたと思いますが,彼はそれらをはねつけて遠ざけていたのですね。

神は,ノアに現れて,一つのことを、箱船を作る様に語られ命じられました。

            

箱船は大型タンカーですね。それを作りには,現代でも大勢の人が掛かってさえも1年~2年掛かります。それは僅かな人数の家族で作りのですから、想像を超える物だったと思います。

多くの年月を要している間には,当時の人々は,ノアをあざ笑うだけでした。
神の願いは多くの年月を要している間に、独りでも悔い改める事を願っておられたことも理解できます。

寸分違わず,箱笛を作り続ける事は大変ですし,信仰を保ち続ける事も大変ですね。
命じられたことを,士気を下げないで実行。ビジョンを保つことが如何に重要であるかが分かります。

あらゆる種の保存さえも命じられました。それらを数名の家族で集めることも大変な作業と日数が掛かります。

ノアは着実に 創世記 7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。と記されています。

私たちは聖霊によって助けと導きがあります。それらを知り,従っていく為の助けです
ややもして・・それを気がつかないで過ぎている日々が在ることも事実です。この点を,神に祈り気がつかせて頂き,実行できるように祈りませんか!


創世記 7:10 それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。

私たちは神からのビジョンを遂行実行中は,生き生きしますね。
けれど、何故か? 沈黙なさるときがあります。この時期が大きな試練です。

箱船が完成し,種の保存のための動物を全て箱船に治めました。
終えてから最後の沈黙がありました。箱船のとを封鎖してから、雨が降りませんでした。

その七日間はノアとその家族が信仰を・・神の言葉を信じ続けることを試されました。

例えば・・アブラハムに,神は子供を与えると宣言約束なさったのに,実行されるまでには,25年の年月が掛かりました。この年月は人それぞれで違います。

神の命令に・・ビジョンに従っていても,突然の沈黙に私たちは耐えて。信仰ビジョンを保つ必要が在る事があります。
あなたの自分の試され忍耐が必要なときのために備えていきましょう。

私自身も,神戸で開拓伝道するときに,40日の断食を2度しました。その時に与えられたビジョンが実行実現できない状態が長い間。続いて居ます。でも諦めないで祈り忍耐をしています。
勝手ながら、どうぞ、覚えて,ご加祷を賜りますように,お願いいたします。




2014年1月24日金曜日

@ ノアの生き方。創世記6章

6章に入って3つの記録が 目にとまります。

人の齢が短くなる。

3節には、人は、その生き方に責任が問われる事、責任を負わなくてはいけない。
神に捧げて人生をおくる責任があります。身勝手な生き方を神は好まれないのです。

500年から1000年 生きていた人は、神の意志で,120年を境目前後。制定され変更されます。3節 神の子たちがあまりにも気ままに結婚することから風紀の乱れを憂いをされた神様がおられます。

申命記      新共同訳
32:5 不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。32:6 愚かで知恵のない民よ/これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父/あなたを造り、堅く立てられた方。

神の意志に従った人健康的に生きた人は、この地上でも120年以上も長生きしていた記録もあります。  神の意志を変えるほどに,当時も・・現代も・・悪い時代に入ってきているのかも知れません。

   神の心「私の霊は、永久には人には留まらないであろう。」神は,私達一人々に注視して忍耐もしておられるのです。

5節には、『ご覧になったとも書かれています。』

神の憂い、悪がはびこる時代

 4節からは、ネフィリムの身勝手さがが神の心を損ねたこと,心痛められたこも書かれています。

8節から登場する  ノアが主の心にかなっていたと書かれています。
「朱に交われば赤くなる。」と,ことわざが示唆ように。 罪の生活を続けていると感覚が麻痺してきます。それが当たり前のようになっていきます。それが廻りにも影響を与えていきます。神の心から離れた生活をしている人々の中で、一人だけが正しく御心に叶った生活をすることが困難だったのです。

                   

神の心にかなうように努める

 しかし、ノアだけが,神の心にかなっていたのです。8節には「ノアは、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神と共に歩んだ」と書かれています。
たった一人が・・ノアだけが正しい人であると認められる。周囲の人々は一体どの様な生活、心で過ごしていたのだろうか? アノだけしか残っていなかったと・・神の深い悲しみ落胆は・いかなる物だったことでしょう。 
罪を犯したアダムから受け継いだ・・祝福と罪の報酬・・気を付けて各自の心を見張る事をしないと・・悪の想いが増大することも6:5には暗示されています。
さて、ノアの心にも,この性質は受け継がれていたのです。けれど、彼は努めて悪い事にも心寄せないで、彼が意識してそれらの悪い事から恥ずべき事からも距離を置いていました。義人と認められるのは、当時はノアだけでした。
今日。神の目を喜ばせている義人は何人居るのでしょう?
神の赦し。十字架の購い無しでは,義人は一人も居ないのです。

ロマ 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

キリストの血の代価で,買い取られた私たち。クリスチャンは神に感謝を日々すべきです。

ロマ 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

Ⅰペテ 3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」

  ノアは最初から義人としては認められていなかったのです。しかし、神に近づき、御心に叶った生活を続けていきたいと強く願っていたことが。彼の周囲を取り巻いていた悪のの環境からも,逆に理解できます。 誘惑には弱い私たちですが、 ノアのように神の認められる生活を送れるように祈り神の助け・・私たちの助けてで在る聖霊様を,日々の生活の中に歓迎して、そのお声を聞き分けられるように訓練していきましょう。


ヨハ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

2014年1月17日金曜日

@ 神が取り上げたエノク 創世記 5章より


  神が取り上げたエノク
 創5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

  創世記5章に入ると人名系列が書かれています。それぞれ1000年近く長生きしています。その中で一人だけエノクは死んだとは書かれないで,神が取り上げられたと書かれています。 彼エノクは神とともに歩いたと書かれています。 英語聖書 Today’s English Versionではこの様に書かれてありました。
Gen 5:24 He spent his life in fellowship with God, and then he disappeared, because God took him away.

   his life in fellowship with God, エノクの人生は、神の教え従って歩いた以上に、神様との交わりに尽くしていた生き方だったことが表現されていました。


  Going my way 我が道を行くでは無い生き方でした。
 まさに、  My way of life that is in God 神の中にある私の人生・・と言う生き方です。



 エノクは、日々。神様の意思を聞きながら従っていた様子がうかがえます。ある日だけ、ある時期だけを神に従っていたのでは無く、彼の長い人生の全てを,神に付き従っていたのです。
365歳の時に「神に取られた」のです。エノクという意味は従う者の意味。

  一発屋とか花火のように,一瞬輝いた人生では無く、毎日が神に従い歩き、輝いて今のです。私は、アメリカの日本人教会を巡回して伝道したことがあります。

 その一つの教会は、アメリカ人の教会堂の一部を借りていました。沢山の小礼拝堂と共に2~3千人収容の体育館ほどの大きな礼拝堂がありました。その大きな礼拝堂を建てざるを得なかったリバイバルが去って仕舞い、集まる人は1000人に満たないと聞きました。
  
 その会堂の中心に座って祈ったときに、神の計画という言葉が心に響いてきました。

神の御心に従って計画を立てることを,私たちは忘れてしまうことが如何に多いことでしょうか?

 神に従ったときには,聖霊の風は吹きますが、教会員や指導者が,少しでも御心から逸れると、聖霊は御心の好み所に向きを変えてしまいます。

 生きている間の全ての日々を,神の御心に従い歩く事が,私たち人間に困難な事と思います。それは、各々が自分中心に考えて,思考して生活することが楽になる性質が、アダムの罪からの遺産・心根が引き継がれてしまったのです。

 神にに従うことは日々。自我との戦いの戦場に行くことです。
エノクはその戦いに勝って,御心中心の人生を委ねたのです。神はそのことから、死んだのでは無く、神の側に引き寄せられたのです。アダムには与えられなかった恩寵が、エノクには当たられたのです。

 私たちの少しでも神に近づく生活をしていきましょう。その決心に聖霊様が、私たちの助けてとして,キリストに変わって多くの天使と共に来て下さいます。
少しでもエノクのように,人生を生きて終えたいと思いませんか。

神様は一人一人の名前を覚えて記録なさいました。
私たちの名前も同様に覚えて下さって,生き方も見ておられることは非常に感謝な事です。


*エノク書という聖書外典があります。エノクが天に上り神の書記官として用いられて,天国の出来事を地上に示したと書かれた内容です。けれどその内容を,主イエス様は一切。(外典からは)引用なさいませんでした。主キリストに習って外典から引用したり説教をすることは避けたいと,私は思います。





2014年1月15日水曜日

@ 祝福の名前と家系 創世記 4章

  神の願いは、祝福を与えたいと・・創世記4章から・・・

 前回にはエノクが神から時別に愛された、取り扱いを受けたと記しました。
このエノクは、アダムに生まれた新しい子供。三男として生まれた子孫のことです。

エノクと名前の意味は、奉献する。とか新しい家<家系>を築くという意味があります。

聖書には4人のエノクが登場します。カインの子供にもエノクがいました。父の荒々しい気性は受け継いでいました。 親が願う子供の人生にふさわしい名前を大概は付けますね。 例えば、ユバルと言う名前の子供が生まれ、美しい声という意味の名が付けられ、人類初音楽家となり、トバルと言う子は、物造りの意味があります。鉄を扱う意味もあり鍛冶屋になりました。

カインから生まれた子孫の中に、レメクがいました。彼の名意味は「強烈な意思の意味を持つようになる。」です。歴史の流れの性格さえも現すようです。カインの子孫はカナン人と成り、後にアブラハムの子孫に敵対するようになります。

神は、カインを人が過って殺さないように定めました。

しかし、このレメクは言いました。「カインに7倍の復讐が在れば、レメクに77倍の復讐。」と言いきっています。 神の意志は、罪を犯したカインさえも罰しないで、天寿を全うさせ、人が過って、彼を殺さないように、身体に印を付けましたが、レメクは、神の意志さえも無視した強烈な意思を持って生まれました。地上の人間生活の進歩、文明形成を行いました。しかし。神本来の意思を無視しました。
  
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神の願いより呪いを倍にしたレメクがいます。

時々、「神は何故戦争をなくさないのか?」 何故人は不幸なのか?似たような質問疑問が枠でしょう。 けれど これらは天の父なる神からの本心からはかけ離れていると思います。さも神に、原因があるかのように、考えがちですが、決して神の本心では無いのです。

カインからの気質は、少なくとも人間の中に、種として植え付けられてしまいました。サタン悪魔によって、エデンの園の過ちから、誘惑から始まったのです。神からの気質も本来はあり、人と愛する事、自由な選択する力も持っています。しかし、悪を行う力も同時にサタンから植え付けられました。

両親から引き付いた気質は、私たちの中にもあります。幼い時に、両親の嫌さ性悪を見て、自分はあんなふうには成りたくないと、皆さんは思ったことが大なり小なりありませんか?親か叱られて、嫌だと想っていても、自分の子供には  よく叱り・・離婚した親を見て、嫌だと想っても、その子供の中には離婚をたやすく考えてしまう傾向がありようです。< 念のため、全てではないです。>

解決は、エデンの園で契約された、新しい契約の救いを持つことです。創世記3:13

救いの力、サタンノ頭を砕く力は、神の子キリストだけです。

自分では解決できないと想えるどうすることも出来ない気性の問題も、

キリストには家系の呪いも解決の力が在るのです。

 神の祝福を受けることは、その個人成らずとも、家系に対する祝福となります。

アダムの第3子。セツ 意味は「授けられる、生ませた者。」 と言うこともが生まれます。神は長男のカインよりは、この子供に祝福をおかれて、神の願いを託されました。

生ませた者から生まれたセツの子供には、エノシュと名付けられました。人という意味です。アダムと同じ意味合いです。このエノシュは自分の弱さを自覚したのでしょう。神を求めての礼拝を始めます。創世記4:26

創世記5章に入ると、これはアダムの歴史で在ると書いてあります。 ここでの歴史とは、へブル語ではトーレドースが用いられます。生ませし者の意味です。 これは歴史という意味とも成ります。ヒストリーHistoryとは違う意味です。キリストHis story 彼のストリーが英語では歴史の意味です。キリストの物語が歴史の語源です。 アダムからの家系がキリストに受け継がれる歴史でもあります。

セツの子供たち、孫達は長生きして、800~1000年の長寿でした。

その子孫の中には、レメクがいました。彼は長生きを苦しみと感じて居たようです。沢山の子どももいました。そうではなく喜びと感じる子供も居ました。その一人がエノクでした。 (カインの子供、子孫のエノクとは違います。)エノクは神と共に歩み、神に喜ばれました。神は彼を生きたまま、天に召されました。神と共に歩む事が長生きしても、喜びと思えることが非常に多いと言えます。

彼の子孫には、ノアが生まれました。慰めの子という意味です。 神からの罪の呪いはありましたので、額に汗する耕すことの労働は在りましたけれど、ノアはそれらの苦労を慰められたと言う意味を持って生まれました。

ノアには、セム。ハム。ヤペテの子供が生まれました。

親としても幸せを子供に受け継がせることには、昔も今も代わりはないですね。
少しでも神に祝福された霊的な財産を受け継がせることが。次の幸せにもつないでいくことになります。

あなたはどのような祝福を、あなたの子供に受け告がせる事が出来るかを、静かに考えたことがありますか? あなたの信仰を1番の遺産として,子孫に受け継がせていきましょう。

神である天の父、創造の主キリストに,助けと祝福を求めましょう。

2014年1月13日月曜日

@ 捧げ物の心 創世記4章から

 捧げ物の心

創世記 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、
 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。


  私たちからの捧げ物を、神様は喜んで受け取って下さいます。
しかし。その心根。私たちの隠れている心底を見つめておられるのです。私たちには嬉しい事であり、吟味される私たちの心底に良くない想いがあるのならば・・形だけの捧げ物。何かやましい心を持ち合わせていたとしたら・・その捧げ物は、神様をとても悲しませる結果となります。

 
神様は何故?アベルの捧げ物を喜ばれて、カインの捧げ物を拒否なさったのでしょうか?
  神のお心を確かめることは出来ませんが・・
羊・・初子は羊飼いにとっての労働における最大の喜び。しかも、初子の中から,考え 考えて・・思案し尽くして・・最上の子羊を選びました。(沢山いた羊では無く、少ない羊の初子だった可能性があります。後に・・イサクヲ献げた,アブラハムの心情にも通じています。)

  一方、カインは地の作物から選びました。カインの心情推し量る言葉は書かれてはいません。聖書に書かれていないアベルへの神からの賞賛の言葉が、カインを逆上させた可能性もがあります。カインは反省、悔い改める事も出来た選択を、間違った選択をしてしまいました。その結果。弟殺し、人類初の殺人がおこなわれてしまいました。

 このアベルとカインの真実は、私たちが神に捧げ物をするときの警告でもあります。
神様は、私たちに自由を与えて下さいました。その自由によって、神に感謝の捧げ物を出来るのです。
その自由に寄って、最も愛する人に、何か・・自分の気持ち。心を伝えるために、何かを贈るとすれば、色々考えて最良の手段や品物を選びに選ぶようになるでしょう。
同じ献げるのであれば、神様に喜ばれたいですね。


アブラハムの捧げ物
アブラハムが戦いにでて、敵からの戦利品の10分の一を,彼自身が決めてシャレムの王メルキゼデクに<いと高き神の祭司であった。>捧げ物をしました。
  
創 14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

出エジプト記 レビ記の時代には,捧げ物の十分に一は、ユダヤ人の中では慣例化 律法敵に変わっていきました。

  ダビデは,幕屋の神殿で讃美の生け贄を・・ソロモンもその神殿で讃美の生け贄・・心の生け贄を献げて、神はその喜びを神の霊で、神殿を満たされました。

やもめは,その日。食べる分の生け贄、献げ物をして,イエス様から金額や品物では無い,その心を喜ばれました。

 一端。献げた献金は神の物です。厳粛に扱わないと,その罪は私たち自身に降りかかります。信仰によって、導かれ献げた献金には,神からの祝福が伴います。
  
献身に 人生の捧げ物

献身は何も、牧師 司祭や神父だけでは成りません。それぞれの人生を神に捧げることが献身です。
職業を選ぶときには、与えられた環境、賜物、趣味趣向 あらゆる事 条件から自由に選び出して職業を選び,神に献げる仕事選びをするならば,それがあなたの献身と成り、神からの祝福を受けるのです。神は、私たちを祝福なさりたい。これが本心です。

 神様は、私たちの真摯な心や態度。悔い改めを大層喜ばれます。逆に、神の愛と契約と拒否するならば・・それは永遠の死です。 神はとても素晴らしい愛を人生を与えられます。
愛を注がれる反面。妬む神、厳しい裁きの神で在る事を覚えて頂きたいのです。

2014年1月9日木曜日

作詞。あなたは何処で、私を見て居るのですか?

私は重い病です。これは心の旅路 にリンクしています。

私の命が消えるかも知れない不安で一杯です。

何故?こんな時に・・
ようやく宣教活動、伝道を始めようとした矢先です。
多くの人の祈りの支え,尊い献金によって神学校を卒業して・・
癌の宣告に不安に倒れそうです。

暗い夜道で,先が見えないのです。
恐れと悔しさで一杯です。

何故こんな時に・・未だこれと行った宣教活動もしていません。
このままガンに負けて死にたくないです。

父なる神よ。あなた絶望的は母の痴呆症 記憶喪失から回復させられました。
しかし・・今日の私にはそれさえも,遠い日のようです。

絶望感に打ちのめされそうです。今まで支援して下さった方々の顔を思い出しもします。
支援したけれど・・彼が死んだのは,御心ではなかったのだ!と言われそうです。

試練の時に,私を呼べと聖書には書いて有るでは無いですか?
今。祈っても,天上に祈りが跳ね返ってきそうです。
絶望感で先が見えないのです。

エリヤが砂漠に逃げたときに、あなたの細い声を声を聞いたと聖書には書いてあります。
ヒゼキア王の命も、あなたが,王に死を宣告後に,お気持ちを変えられましたね。

それは私には無縁なこと?関係の無いことですか?
苦しいです。あなたを疑いたくないのです。
けれど、あなたの無言が続けば続くほど,信じたい気持ちと不信仰の波に
私は翻弄されています。

どうすれば良いのかも判断が出来ません・・。

キリストの名によって,聖霊様、あなたが私たちの助け手と成って下さると
語って下さいました。

どうが、そのことを私の身の上に現して下さい。
あなたの御名が崇められるように求めるようにも,主の祈りを教えられたでは無いですか?
重く暗い気持ちに押しつぶされています。
祈る勇気さえも,失っています。

祈っても答えが無い事が怖いです。確かにあなたを信じて、永遠の命を頂きました。

喩えの無いほど感謝です。けれど主イエス様。 この世で生きている間に、あなたの栄光を見たいのです。魂の救いが無くして,癒やしも虚しい。つかの間ですが・・ でも今日。私はこの様で生きていますから・・ 今。あなたの栄光が見たいです。

すると神は、私に独りの男が、深い谷間を歩いている姿を見せられた。
それはダビデ王だった。戦いに疲れて孤独と闘いながら歩いて居る姿だった。

しかし,彼の前方には,その深い谷間を抜けたところには緑の牧場が見える夢だった。
私のダビデ王の姿に,私を重ねて、徐々に希望を見いだした。
辛いこの時を,喩え祈ることが出来なくても,失望に打ちのめされそうでも・・

必ず,緑の牧場があるのだから、この場所。死の谷間に留まらず,前に歩こうと・・
ようやく、その決心が出来たときに・・「安心しなさい」と小さい声を聞いた。

**********************

私の癒やしの体験です。胆石の手術するためにレントゲンをすると癌が見つかり,再度 MRIと血液は反応では癌でした。 しかし、手術の為に開腹手術をしました。医師が驚くほどに,癌の痕跡はあったようですが、その癌自体が縮小していました。















2014年1月6日月曜日

@ あなたの兄弟はどこにいる? 創世記4章

はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

  神は弟アベルはどこにいるのか と  カインに尋ねました。

この質問はエデンの園でアダムに問い掛けた言葉です。

カインとアベルは、その両親アダムとエヴァのように親しく神との交わりを保っていました。

忽然とアベルが神の前から消えたので、神様は心配なりアベルの所在を兄に尋ねたのでした。

 私は弟の番人ではないと言って拒絶します。

私たちは隣人に対しての責任があります。神様を礼拝に導き、その愛の素晴らしさを分かち合う責任があります。カインはその責任を拒否したばかりでは無く、人類初めての殺人を犯してしまいました。
                


 神が、私たちの一人一人を気にかけておられる大切な言葉。『あなたはどこにいるのか。あの人はどうしてるのかです』。

いつも神様は私たちのことを気にかけてくださっています 

聖書を見るとたくさんの名前が開かれています。神様は一人々の名前を覚えて気にかけておられる証です。

   私が個人が救われただけではなく、私たちの両親 兄弟 友人 職場の上司や同僚たちにも、神はその名前を知っておられます。私たちのが十字架の福音、救いを伝える事。

神は愛しておられることを伝えるのは,私たちの責任範囲だと思います。

  『主を信じなさいそう。すればあなたもあなたの家族も救われます』この言葉はとても有名ですね

また同じ信仰、クリスチャン同士が励まし合い、足を洗い合う責任が、私たちの信仰の交わりに含まれ展開されていくことが大事だと思います。

有るブログでは教会や牧師を非難する掲示板を見かける事も在ります。一旦インターネットに書き続けるなら、その記事は半永久的に残ります。足を洗い合う事は、責め合うことではありません。

目に見える者を、愛せない人は、直接。私たちの目で見ることができない神様をどうして愛することができましょう。


2014年1月5日日曜日

@ 目には麗しく、その要素は?創世記3章

アダムとエヴァはエデンの園で、

 ある日、サタンは エバに1つの実を指し示して、「神はあなたにエデンの園にある全ての実を食べてもいいと言ったのですか?」
と問いかけました。

 神様と親しく交わり、恵まれた環境中で食べることにも困らずに生活していました。アダムとエヴァはエデンの園で自由に木の実を生活をしてたのです。

豊富な木の実が有るために、神様が言われた食べてはいけない木の実には強い関心、注意が薄れていたような気もします。


2:16 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。


サタンはそこを突いてきました。

木の実を観て下さい。」大勢あるものの中から1つのものに注視せたのです。

エヴァの心は1つのみに注目してしまいました。その注目度は神の言葉を忘れるほどでした。神様から直接聞いていたアダムも神様の言葉を忘れてしまいました。

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

思うに私たちは見ることからまた聞くことから強い関心を抱くようになります。見てみたい!触ってみたい。食べてみたい。いろんな願望から欲望に変わっていきます。してはいけないとわかっていても、欲望に負けて第一線を超えてしまうのです。

1つのことにこだわりすぎると、心が病んでいきます。失望感を抱いたとしても、気持ちを切り替えないと、1つのこだわり願望に変わったとき。心が病む原因の1つになるのです。

9私たちには実に麗しい事。ためしたい事がたくさんあります。
自制を失ったとき、れは罪に変わる。

アダムとエヴァは、様から直接の声を聞いていたことさえも忘れてしまったのです。私たちは、理性を失ったとき、すべてのことが、自分自身の目に美く感じてしまうのです。

あなたは今どこ見ていますか。「神様から目を離さないで」いう言葉もあります。

ヘブル 12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

神様から目を離すことによって本来持つべき神の約束 祝福を失うことになるのです。

ある人はこのように言います。キリストを信じたけど良いことがなかった。その心の中にはキリストとまた別の物を見比べていたのではないでしょうか?神様が本当に見てほしかったところを見ないで別なものを見ていたのではないでしょうか?

前記のブログのように、あなたはどこにいるのかと神は私たちを探しておられるのです。

私たちを探しておられる神様のもとに帰りましょう。


イザヤ 59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
 59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

@あなたは何処にいるのですか?

『あなたはどこに居るのか』創世記3:9

 私たちは、神を求めます。 特に・・日本人はあらゆる物に、
神を見いだそうとしています。
見いだそうとするなら未だしも森の中に・・木や石を求めて,自分の神を作り出します。自然 動物界・・狐も神に成ります。

私たち人間の方が、神を忘れています。

 何故この様になったかと言えば、サタンが、神からアダムに託されたエデンの園を妬んで,その権利を奪おうとしたからです。

 天国で神に逆らい追い出されたサタンが,この世、エデンに行き場を求めたと思います。その時点では、サタンにはその権利がなかったのです。

 アダムに、神に対しての疑いを抱かせて誘惑。騙してエデンの園の権利を奪いました。 サタンは神のご性質もよく知っていたと思います。

その事は、エヴァを誘惑するサタンの言葉から想像ができます。
アダムは神との契約を直接かわしその内容についてよく知っていたと思います。サタンはその弱点を見つけ出して、最初にエヴァに誘惑疑いを持たせました。

 次にエヴァからアダムに、その誘惑の手が伸びたのです。アダムにとってエヴァが愛するものであり、彼にとっての弱点、油断させるものでした。

            




 ここにサタンの巧みさがあります。

神に逆らった後、彼らは身を隠します。アダムは、上からの信頼をたくさん受けていたことをよく知っています。けれどその信頼を裏切ったことを恥じて隠れたのです

けれど、神はアダムの探し求めて言われました。「あなたはどこにいるのか? 」

 私たちは、私たちを欺いた人、背信、反逆した人に対して、簡単には愛の言葉をかける事は難しいです。アダムとエヴァは神に対する言い訳をお互いを非難しています。

もう一度、繰り返して言いますが、神の方からアダム。人を探されたのです。当然ながら全能の神でですから、アダムが何をしたかを知っていましたが、あえて神様、ご自身がアダムを探して呼びかけられました。「あなたはどこにいるのか」

神はアダムを作られ、エデンの園を守るだけではなく、我が子のようにいつくしんで愛されておられました。

神の素晴らしさ、受けた愛をアダムはよく知っていました。
しかし、一瞬の迷いが、疑いが神との愛を自ら遠ざけたのです。にもかかわらず、神様の方から、アダムつまり私たちを探しておられるのです。


 神様との契約を破り本来はその場で命が終わるところを、エデンの園追放するだけですまされてのは、アダムとエヴァに対する深い愛からの思いでした。

創 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

将来にわたって救いがあることを新たに契約なさいました。


3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

エデンを追い追いだす際にも、深い愛を示され、1つの命を奪い皮の衣を作り着せられました。この獣が羊だったのかは書かれておりませんが、多分。聖書の例えからして、、。想像させる上の深い愛を感じます。なぜなら、キリストは神の子羊と呼ばれたからです。

もう一度繰り返しているならば、神様の問いかけは、今、私達に向けられていると思います。

「あなたはどこにいるのか?」 今日あなたはどこにましたか?
神様との交わり、祈りの場ですか?それとも・・・。

                  

2014年1月3日金曜日

@エデンの園に人を置かれて

創世記 2:15 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。


父なる神は天地創造後の最後に,人 アダムを創られました。

創られて目的は、神から託されたあらゆる物を管理して守ることでした。父なる神と直接と交わりと語らい用意されていました。

環境が整って全てが満たされていたエデンの園で、地上にあるの天国とも言われました。

現在の、私たちの暮らす環境とは掛け離れています。この現在の地上との相違を意識するならば・・

だからこそ、神と交わる,追い求めることが重要に成り、切に求める事が重要です。

求めるか?求めないかの結果の相違は大きいです。


創世記 2:7 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

息 とは聖霊でもあります。 聖霊は人の身体に命をもたらしたのです。これも原点です。
永遠の命の源が、聖霊様です。神の息なのです。 
在るべき姿の人間にもどるためにも聖霊の息は必要です。 キリストは語られました。

ヨハネ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。


私たちは、神に重要視されて創られた存在なのです。神の息が直接、鼻から吹き込まれた存在なのです。


私たちの身体は,エデンに流れ込んでいた,4つの川の塵から創られました。

私達の身体を構成している元素を調べていくならば、その4つの河の元素にたどり着くのです。

1980~イラクのヒートの町 ユーフラテス川 付近に滞在。




2014年1月2日木曜日

世界は、夕暮れから始まった。

神が天地を創られた

始めは光が作られました。しかし世界の始まりは闇でした。

そして世界は夕暮れから始まって一日がスタートしました。


1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

夕暮れから始まった。 光が創られもしましたが、第一日目は夕暮れ 闇 朝と順番にきました。


私たちは朝日を見つめて,希望や夢を抱く事が多いのでは無いでしょうか?

けれど神は夕暮れを先に,この世界にもたらしたのですね。
繰り返して、夕があり朝が来たと繰り返しています。

神の見方と,人の見方の相違も在りませんか? 人は朝から物事考えスタートすることが多い。夕方、夜になって,一日を振り返ること失意が生まれることが多いです。


神は夕暮れからスタートさせています。朝に成るまでは先は見えない闇の中でも,神は着実に考えて実行するプランを立てられたのでは無いでしょうか?

一日働いて、満足して夕暮れを迎えておられます。夕暮れ
闇の中で 蓄積されて計画の中で次の日を迎える

パッと咲いて散りゆくと言葉がありますが,多くの方々はこの様に生きたいと考えられるでしょうか?

暗闇の時に備えて準備をして,一日の始まりに輝く咲く花のような人生が、神の助けで,出来るのです。

闇は 夕暮れは 神と向き合い 心と魂を癒やす大事なときなのです。



人間の創造。

創世記 1:26-28  神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 神は彼らを祝福された

{神が、我々と 複数形で記載されている大事な聖書箇所です。故に三位一体が語られ理解されています。神の導き 助けにも 三身の違いからの微妙な違いも在るような・・?気がします。}

私たちは神の形に似せられて 創られた存在です。
神に愛される存在です。
神と同じような考え方 気質 性格も どこか似ているのです。

驚きです。感謝です。 未だ未だ聖書を読み込むならば日々新しい発見と感動、教えが一杯 聖霊の助けによって理解と導きがあります。 けれど聖書を調べ,読み下げることも大事です。
直感的に理解することもありますが、確証するためには,他の聖書箇所も調べて照合してより確実になります。


さて、神は7日間で世界を創られたと記載されています。

神の一日は、人の千年にも及ぶとも書かれています。

私たちは、神の手が動いて,私たちの生活の中。一寸先は闇とも言われる人生の中で 着実に備えて下さる神キリスト 聖霊様 父なる神に讃美を献げましょう。

神は夕暮れから始められたように、暗闇を乗り越えて,朝を迎えられたように。私たちの人生の病む、問題を解決し,輝く朝をも変えられるように、父なる神は整えて下さいます。

夜の明けね,朝はないのです。

キリストに在って救いを得て,人生の朝を私たちは迎えることが出来るのです。 原動力、それは,キリストを信じ切る。待つ。希望です。 此処にも愛と希望と信仰が生かされます。 実生活の中で適応して生きましょう。